次の夢
2007年夏のヴァッテンフォール・サイクラシックスで「ヨーロッパのトップレースを走る」という廣瀬の夢は、実現された。近い将来の引退を決めた廣瀬だが、すぐに次の夢が浮かんできた。前から考えていた、地元宇都宮でのチーム設立である。
個人的な夢は叶ったが、その夢を廣瀬に与えたサイクルロードレースは相変わらずマイナーなスポーツだった。廣瀬は愛する競技が日陰で行われていることに耐えられなかった。
この一見平凡に見える欲求がどれほど大きな意味を持つかは、おそらく当事者以外にはわからない。誰も見ていない山の中で、限界まで心拍数を上げて喘ぎ続けた経験を持つ者たち以外には。
経費削減レーサー
宇都宮にチームを作るのは、選手たちが社会に注目される舞台を作るためである。特定の地域に密着する形でチームを作れば、ファンも付きやすい。幸い、栃木県には他の競技の地域密着型チームが多く、スポーツを応援する意識はあった。
廣瀬は2008年の秋に地域密着型チーム、「宇都宮ブリッツェン」を立ち上げた。もちろんそこに至るまでには無数の苦労があったに違いないが、廣瀬はあまりそのことを語らない。苦痛についてぺらぺらしゃべるのはロードレーサーの流儀ではないのかもしれない。

廣瀬がブリッツェン立ち上げのために用意した企画書
しかしそんな廣瀬もさすがに、資金のやりくりには苦労した。実業団とは異なり、地域密着型チームは自らの手で資金を集めなければいけない。一口10万円のスポンサー費を集めるために、廣瀬は慣れないスーツを着て地元企業を回り、今はまだ知られていないが美しく魅力的な競技があると説き続けた。
だが廣瀬は疑問を感じてもいた。わけのわからない競技に資金を出す企業が果たしてあるんだろうか? しかし幸い「地域密着型」という形への理解は強く、スポンサーが集まり始めた。廣瀬は宇都宮という場所に感謝しつつ、こうも思った。「これじゃスポンサーではなく、寄付だな」。まだ、競技が地域に価値を生めていないためである。
ともかくこうしてチームは立ち上がったが、資金繰りはまだまだ苦しい。廣瀬は予定していた引退を撤回することにした。選手として走ることで、人件費を削るためである。
だが、かつてのように選手に専念はできない。営業やチーム運営、地元の子供へのアピールのための自転車教室、果てはチームグッズ作りなどの仕事が膨大にある。仕事の空き時間を使って練習する、第二の選手人生がはじまった。次は、いつ引退できるかはわからない。

チーム運営の仕事と並行しながらの選手生活だった
2010年からは、栗村修がチームの監督に就任した。廣瀬はチーム設立時にも栗村を誘っていたが、栗村の調整がつかず、この年まで待ったのだった。
手作りのチームは徐々に進化し、2011年には初の海外レースであるヘラルド・サンツアーに出場している。そこにはかつて廣瀬が所属し、今や世界の常勝チームとなったスキル・シマノもいた。監督のルディ・ケンナに「立派な仕事をしたじゃないか」と声をかけられた廣瀬は泣きそうになった。ようやくここまで来た。
「このチーム」
ブリッツェンは翌年の2012年シーズンも充実した戦力で臨んだ。春のUCIレースでは外国人選手を相手に強さを見せ、6月には前年は怪我に泣かされたエースの増田成幸がヒルクライムレースを2連覇する。設立以来の悲願である、Jプロツアーの制覇が見えてきた。
6月末の東日本クラシックではちょっとした「事件」も起こった。
いつものように増田ら主力選手をアシストすべく「逃げ」に乗った廣瀬だったが、大集団のペースが上がらないままゴールに近づいてしまった。周りには鈴木譲(当時シマノ)や井上和郎(ブリヂストンアンカー)、平井栄一(当時ブリヂストンエスポワール)らスプリントに強い選手がいたから勝つのは難しいと思ったが、タイミングをはかってスプリントを開始すると、誰もついてこない。廣瀬は驚いた顔でゴールラインを切った。

プロ11年目での初勝利となった東日本クラシック
プロ入り11年目の初勝利である。涙声で「廣瀬が勝った、廣瀬が勝った」と繰り返す栗村と抱き合いながら廣瀬は「このチームで勝ちました」と答えた。廣瀬の意識はすでに「このチーム」のほうに向いていたのである。
その後もチームの勢いは衰えない。7月には2レース連続で1・2・3フィニッシュを飾るなど圧倒的な力を見せ、エース・増田による年間個人順位とチームランキング双方での優勝を濃厚にしていた。
二度目の引退
7月のレースを終えたころだと、廣瀬は記憶している。廣瀬はいつものように夜の事務所で仕事をしていた。事務所にはほとんど人がいない。
自らの手でゼロから作り上げたチームは日本一に近づいていた。しかも、自身初の勝利がそこに貢献してもいる。廣瀬はふと、夢が叶いつつあることを感じた。ちょうど、第一の選手人生でヴァッテンフォール・サイクラシックスのスタートラインに立ったときのように。そしてヴァッテンフォールのときと同じ結論が、同じように突然、降ってきた。
廣瀬は顔を上げると、残っていたスタッフに言った。「やめますわ、俺」。
今度こそ終わりだった。最後のレースはもちろん決まっている。
ジャパンカップ
廣瀬がサイクルロードレースに興味を持ったきっかけは1993年のジャパンカップだった。あれから20年近くが経っている。ジャパンカップの規模は大きくなり、宇都宮には地域密着型チーム・宇都宮ブリッツェンも生まれ、選手たちは地域社会の中で声援を浴びて走っている。
その立役者はもちろん、廣瀬である。廣瀬は自らの出発点を最後の場所に選んだ。

多くのファンが廣瀬の引退を惜しんだ
廣瀬が引退を決めたのは、ブリッツェンだけが強くなっても意味がないと思ったためだ。日本におけるサイクルロードレースそのものが大きくならなければいけない。
二度の引退を経た廣瀬は、もっと大きな「レース」に参加しようと思っている。そこで勝たせるのは自分自身でもチームでもない。サイクルロードレースという競技そのものである。