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February 12 2016 By 佐藤 喬

「晩年」鈴木真理(中篇)

第一次ロードレースブーム

初レースが散々な結果に終わった中学生・鈴木真理が悔しがっていたころの日本は、ちょっとしたロードレースブームになっていた。

それはNHKが1985年~1991年まで放映していた、ツール・ド・フランスの番組によると言われている。この番組が今日の自転車界にもたらした影響は極めて大きい。この放送を見て、ロードレースの世界を知った少年は少なくないからだ。たとえば、栗村修もその一人である。

ビデオデッキも普及しきっていない時代である。栗村少年が番組を「録音」していたころ、鈴木少年も同じ神奈川県でツール・ド・フランスに憧れ、ロードレーサーになることを決めた。もう少し後に、この2人は出会うことになる。

チーム・アトランタ

ロードレースブームを知った鈴木は、初レースだったチャレンジロードに、中学生だけで70人以上がエントリーしていた理由を理解した。トレーニングをしなければ埋もれてしまう。

鈴木は中学三年生からトレーニングをはじめた。平塚市のショップ「ヒジカタサイクル」のチームに入り、年上のレーサーたちと走る。そこには後に競輪選手になる石井雅史(1972年~)もいた。石井は交通事故によって現役引退を余儀なくされるが、その後パラサイクリングに転向し、北京パラリンピックや世界選手権のトラック競技では金メダルを獲得する。

そういう選手たちと走りはじめると、鈴木の成績は急激に向上し、ホビーレースの団体であるJCRC(日本サイクルレーシングクラブ協会)のレースでは、一気にチャンピオンクラスまで駆け上がった。鈴木は実業団で走ることを考え始める。

高校に進学するとき、鈴木は父に頼み、実業団チームを立ち上げてもらった。チーム名は、アニメーション『ドラゴンボールZ』にハマっていた鈴木の希望で「湘南Z」と決まったが、もちろん長続きせず、やがて「チーム・アトランタ」へと改められる。これはアトランタ五輪から採ったものであり、五輪出場への願いを込めたものだった。チームには、後に機材ライターとして『サイクルスポーツ』誌などで活躍する吉本司(1971年~)や、鈴木とは入れ違いになったが、今も強豪ホビーレーサーとして走る高岡亮寛(1977年~)などが集まった。鈴木が、シマノでプロ入りする前の栗村修を知ったのも、このころである。

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「チャレンジロード」を走る高校生の鈴木真理(写真右端の青いジャージ)。写真中央はこの日勝つことになる栗村修

 

北米留学

当時の鈴木真理は上りに強い「クライマー」だった。それは、鈴木が憧れていたアンドリュー・ハンプステンやグレッグ・レモンといった当時のヒーローたちの影響が大きい(鈴木は飼っていたウサギに「レモン」と名前をつけていた)。

彼らは、複数日に渡るステージレース全体を通して争う「総合優勝」を狙って走っている。総合優勝争いが起こるのは主に山岳ステージだから、彼らは程度の差こそあれヒルクライムには強い。鈴木は彼らを意識していたのだった。

上りのために体重を落としたクライマーは、一般的にスプリントは苦手である。鈴木もそうだった。しかし17歳の時に転機が来る。それは北米での経験だった。

17歳の鈴木真理は知人の誘いでカナダに行く機会を得る。3月から9月まで半年間の、一種の留学だった。鈴木はカナダに本拠地を置き、米国とカナダのレースを回る。トラック競技を含めると週に5日レースがある、レース漬けの生活である。

レースは平地でのクリテリウムが多かったから、必然的にスプリントでの勝負になる。そういうレースを繰り返すうちに鈴木の体は筋肉で見る見るうちに大きくなり、体重は半年で6㎏増えた。鈴木真理は北米でスプリンターになったのである。

しかしスプリントは、筋力だけの問題ではない。

恐怖

鈴木はこの頃、スプリントに恐怖を覚えた記憶がない。

時速60㎞以上で大勢の選手がゴールになだれ込むスプリントは、言うまでもなく極めて危険である。罵声が飛び交う集団内では落車も多いし、この速度で路面に叩きつけられた選手が無事で済むはずはない。

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出展:Flickr

しかし怖くはなかった。目の前の選手が落車で宙を舞ってもペダルを踏み続けるし、進路に入ってきた選手は怒鳴りつける。

もちろん鈴木もずいぶん怪我をした。スプリントでの負傷ではないが、19歳の時には自動車と正面衝突し、腎臓を損傷している。医師が、損傷した側の腎臓摘出を検討するほどの大怪我だったが、その後も安全運転をするつもりはなかった。誰よりも先にゴールに飛び込むことしか頭になかった。

鈴木は、17歳という若い時期に北米を経験できた意味は大きいと思っている。人は20歳を過ぎると「考え」はじめてしまう。そういう余計な習慣がない年代でスプリントのセンスを身に着けられたことが鈴木をスプリンターにしたのだった。

生まれ持ったものも大きかっただろう。スプリンターはちょっと特殊な人種である。ヒルクライムに恐怖を覚える選手はいないが、どれほど強くてもスプリントが怖い選手はいる。ゴール前で多少でも怖気づいたらスプリントはできない。

しかしそれは、もし一度恐怖を味わってしまったら、スプリンターではなくなるという意味でもあった。

もちろん、この頃の鈴木はそんなことは考えない。鈴木はスプリントを武器に勝ちまくる。(続く

「晩年」鈴木真理(前篇)

佐藤 喬

佐藤 喬 Twitter

フリーランスの編集者・ライター。1983年生まれ。2013年よりフリーランスとして活動。書籍やムックの企画立案・ディレクション・編集作業・取材・執筆までをひとりで行う。自転車関連に強い。著書に『エスケープ』(辰巳出版)。

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