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February 16 2016 By 佐藤 喬

「晩年」鈴木真理(後篇)

「晩年」鈴木真理(後篇)

負ける気がしない

鈴木は国内だけではなく、海外選手相手にも勝った。鈴木が1996年にプロ入りしたブリヂストンアンカーは、当時は海外志向は弱かったが、1999年に移籍したシマノレーシングでは海外のレースを走る機会も多かった。

海外UCIレースのライバルには、アサン・バザイエフやマキシム・イグリンスキーといった若手カザフスタン人選手がいた。特にイグリンスキーとはツアー・オブ・ジャパンを含むアジアのレースでよく顔を合わせ、一緒にレースの最終局面まで残ることが多かったから、自然と顔を覚え、挨拶を交わすようになった。

ただし、鈴木はイグリンスキーに負けた記憶はほとんどない。スプリントになれば、まず勝てたからだ。

このイグリンスキーはやがてヨーロッパの有名チームを渡り歩き、ミラノ〜サンレモ、ヘント〜ウェヴェルヘム、ロンド・ファン・フラーンデレンなどのクラシックレースで一桁に入るまでになる。2012年のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュでは、後にツール・ド・フランスを総合優勝するヴィンチェンツォ・ニバリを下して優勝したが、2014年にドーピングで処分されている。

もちろん、鈴木と競り合っていたころのイグリンスキーが違法薬物を使っていたと考える根拠はない。ヨーロッパは「ドーピング・エイジ」と呼ばれるほどドーピングが蔓延していた時代だったが、鈴木も、周囲の外国人選手たちを疑ったことはなかった。

それは、鈴木にドーピングの知識が無かったこともあるが、彼らと対等以上に戦えていたことも大きい。鈴木は勝ちまくった。2002年には全日本選手権を勝ち、2003年と2004年にはアジア選手権を2連覇した(2004年の2位はイグリンスキーである)。この時期に鈴木は、国内外のUCIレースで10近い勝利を挙げている。

鈴木は負ける気がしなかったし、メディアを含めた周囲にそのことを公言してもいた。周りを威圧する意図はなく、そういう言葉が自然と口をついて出る。全盛期を迎えたスプリンターとは、そういうものかもしれない。

アシストが自分よりも前でゴールするようなことがあったら、怒鳴りつける。同じチームの選手であろうと、勝ちを譲る気持ちはない。落車も含め、鈴木真理に怖いものなどなかった。

まとも

だから鈴木は、2003年春先のツール・ド・ランカウイにも、圧倒的な自信をもって臨んだ。世界最強と言われていたチーム「マペイ」のアンドレア・タフィとロバート・ハンターを倒すべく、スプリントに向けて加速するプロトンの中で位置を上げているとき、大落車が起きた。

数十名の選手が巻き込まれた。鈴木も宙を舞ったが、骨折は免れた。だが翌日のレースも途中リタイヤに終わる。

スプリントにはじめて恐怖を覚えたのである。

一度恐怖を知ってしまうと、もう元には戻れない。この日以降、鈴木は大集団でのスプリントを避けるようになる。

もちろん、そのことでいきなり衰えたわけではない。鈴木がこの後のアジア選手権を2連覇したことには触れた。しかし内面には明らかに変化が訪れていた。

2004年の全日本選手権はアテネ五輪の選考会を兼ねていた。だからオリンピックを目指してきた鈴木にとっては意味が大きかったのだが、それだけでは説明できないほどの緊張が鈴木を襲った。スタートラインに並んでも体の震えは収まらず、目からは涙がこぼれてきた。レースは2位だった。

大けがのリスクがあるスプリントが怖くなり、重要なレースの前には緊張するようになった。それは人間としては自然だが、今までの鈴木にはない経験だった。オレは歳をとってしまったのか? それとも、まともな人間になったんだろうか、と鈴木は思った。

でも、スプリンターがまともでいいのか?

晩年

心機一転を狙いブリヂストンアンカーに移った2005年は、けがや体調不良でまったく振るわなかった。しかし、この年にチームブリヂストンアンカーでプロ入りした井上和郎(1981年~)は鈴木を見て「温厚なスプリンター」という存在に驚いているから、このころ鈴木が変わっていた可能性は高い。

それは、選手としての晩年に入ったということだ。鈴木は周囲を見るようになっていた。そして、自分の勝利以外にも価値があることを知ったのである。

それはたとえば、若手を育てることだった。2006年に入ったチームミヤタには、監督の栗村修のもと、中村誠(1983年~)、山下貴宏(1985年~)、鈴木譲(1985年~)、福田真平(1987年~)、増田成幸(1983年~)といった、元気な若手が集まっていた。鈴木は彼らを育てることに喜びを感じるようになっていた。

それまでは、強い若手がいたら、力を誇示して圧倒していた。もちろん、シマノで一緒だった土井雪広(1983年~)のように自ら伸びていく選手もいたが、伸び悩む選手を気に掛けることはなかった。スポーツは弱肉強食で、勝利は他人から奪うものだと考えていた。

しかしミヤタでは、若手に走り方を教えることが楽しかった。こうして、鈴木真理は今の、若手に慕われる「真理さん」になった。

しかし鈴木はたまに、そんな自分に疑問を覚えることもある。選手という生き物は、周りを見ちゃいけないんじゃないのか? 大口を叩き、恐怖も知らず、ただ目の前の勝利に食いつくべきなんじゃないのか? 他人に気を使うような「まとも」な選手が、世界でやっていけるだろうか。

そう思うと、鈴木は自分の選手人生の長さを感じずにはいられない。ランカウイでの落車、あるいは2004年の全日本までとそれ以降。二度の選手生命を生きてきたのだ。

そして思う。昔のオレみたいな若手はいないかな?

「晩年」鈴木真理(前篇)
「晩年」鈴木真理(中篇)

佐藤 喬

佐藤 喬 Twitter

フリーランスの編集者・ライター。1983年生まれ。2013年よりフリーランスとして活動。書籍やムックの企画立案・ディレクション・編集作業・取材・執筆までをひとりで行う。自転車関連に強い。著書に『エスケープ』(辰巳出版)。

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