一体、何という巡り合わせだろう。プロラグビー選手だった大西将太郎は、後半32分、まるで「あの時」のようなシーンに出くわす。右中間のややタッチライン寄りの位置で、ゴールキックのチャンスを得たのだ。
2016年2月13日、愛知県の豊田スタジアム。日本最高峰のトップリーグを締めくくるオールスター戦、『FOR ALL チャリティーマッチ2016』があった。世界トップクラスのスーパーラグビーへ日本から初参戦する、サンウルブズの壮行試合も兼ねていた。
大西はトップリーグ選抜のリザーブ要員として、後半18分から登場した。かねて現役引退を表明も、東芝の監督である冨岡鉄平ヘッドコーチにラブコールを受けていたのだ。
そして、「あの時」に似た瞬間を迎える。視線の先では、自分より13歳年下の小川高廣がキックしようとしていた。小川も国内屈指のゴールキッカーで、この日も14分前に左隅からの1本を決めている。それでも大西は後悔したくないからと、確実に認められるであろうエゴを見せた。
「最後、蹴らせてくれへん?」
雰囲気を察した小川は「すみません、どうぞ」と退き、大西が所定の位置に立つ。ボールの位置から4歩、下がる。左へさらに4歩、動く。ボールを見たまま、ゆっくり助走をつける。
蹴る。
「ちょうどあの位置だったので、懐かしい気持ちで…」
H型ポールの縦棒の間に、その弾道を届けた。
「あの時と同じくらい緊張しましたけど、キックの軌道もあの時と同じような感じで行ってくれた…。楽しかったです。はい」
身長180センチ、体重85キロの体躯に褐色の肌、37歳にして当世風のツーブロックヘアが特徴的な大西は、この時、もうひとつの「あの時」「あの位置」を思い返していた。
遡って2007年9月25日、陽の沈まぬボルドーはシャバンデルマス競技場である。4年に1度おこなわれるワールドカップのフランス大会が、予選プールBの終盤戦を迎えていた頃だ。
日本代表は後半ロスタイム、カナダ代表からトライを奪う。10―12。直後のゴールキックが決まれば12―12の同点となり、1995年から続いた大会の連敗が止まる。位置は、右中間のタッチライン寄り。キッカーは大西だった。
33000人強の観客は手拍子を鳴らし、やがて静まり返る。群衆に囲まれた「孤独」な空間にあって、大西はポールの向こう側を見据える。いつも通りのフォームで、いつも通り右足を振り抜く。12―12。再び歓声が沸き上がった。
「緊張もせず。入ったな、と。無の状態でした」
実はこの折の代表チームにあって、大西は3番手のキッカーだった。大事な場面を蹴ったのは、故障者が続いたためでもあった。特にスターの大畑大介、司令塔候補だった安藤栄次は、本番直前に姿を消していた。
大西自身も、カナダ代表戦の頃には脇腹を痛めていた。それでも「信頼されて、試合に出してもらえていたから…。大畑さんや安藤に比べたら、大したことない」と言い切った。帰国直後にはこうだ。
「僕は高校生の頃からチームの2番手キッカーだったんですけど、ずっと練習をしてきた。だから、あの最後のキックに繋がったんだと思います」
この手の言葉に説得力のある、希少で貴重な人となった。
そのシーズンのトップリーグが始まると、国内最注目選手となっていた。ミディアムヘアをウェットに仕立て、公式戦を終えるたびにサインペンを走らせた。五郎丸歩がゴールキックで国民的スターとなる、8年も前のことだった。
大阪の布施ラグビースクールで楕円球に触れてから、まさに記憶と記録の両面で際立ってきた。
地元の花園ラグビー場で開かれる全国高校ラグビー大会では、やはり地元の強豪である啓光学園高(現在は常翔啓光学園高)の一員として活躍。準優勝に終わって芝にうずくまったが、そのまま高校日本代表に選ばれた。
関西の雄である同志社大では、主将を務めた最終学年時に関西大学Aリーグの連覇を達成。ここからワールド、ヤマハ、近鉄、そして最後のクラブとなった豊田自動織機を渡り歩き、トップリーグは通算143試合に出場してきた。
特にフランス大会直後の2007年度は、得点王、ベストキッカー賞、ベストフィフティーンを受賞した。当時はトップリーグでの連続フルタイム出場記録を更新中で、戦い続けられる理由を「ラグビーが好きだから」と即答した。何と簡潔な意志だろう。不思議なもので、ラストゲームで対峙したサンウルブズの堀江翔太主将も、同じ質問に同じ答えを返したことがある。
ゴールキックの精度を安定させること、ひたすらタックルし続けること、チーム戦術や仲間の特徴を踏まえて位置取りやパスの深さを自在に変えること。ラグビーという団体競技に必要な個人の資質を、大西は黙々と磨いてきた。
そうして一線級にあっては大きくない体ながら、長らくスタンドオフやセンターとして各チームの中枢に居続けた。日本代表としては、通算33キャップ(国際間の真剣勝負への出場数)を記録した。
フランス大会は、大西にとって初めてのワールドカップだった。4年前にあったオーストラリア大会で、他の同級生がプレーしていたのが悔しかったという。「あの時」の「あの位置」に立ったのは、驚くほどの執念でラグビーにのめり込んできたからでもある。
今季の公式戦出場は、引退表明後に花園でおこなわれたサントリー戦のみにとどまった。開幕前はリーグ戦で歴代最多となる試合出場数を誇っていたが、シーズン中、同学年の大野均に記録を塗り替えられた。大西とともにフランス大会に出た大野は、いま、サンウルブズの最年長選手となっている。退く人は明かした。
「出たかったです。いつでも出られるように準備はしていたつもりです。142のゲームに出続けた人間としては、本当に悔しかった。世代交代の一言で出られないというのも…」
ただ、ラグビーそのものは嫌いにならなかった。なるはずがなかった。
今度のトップリーグ選抜では、10日から都内で事前キャンプを張っていた。大きな荷物を担いでラグビーの合宿へ出かけるのが、日本代表の頃みたいで楽しかった。
豊田スタジアムでの一戦を前に、「プレーしたらわかりますよ。意識と、能力の高さ。僕がこの先どんな仕事をするのかわかりませんが、こうして一緒にプレーしたことによって、今後、取材がしやすくなる」と、即席チームでの充実ぶりを明かした。海外事情にも詳しく、例えばスーパーラグビーの移籍事情についても関係者級の情報を持つ。
24-52。負けず嫌いは、勝てずに現役生活を終えた。それでも、結局、最後のゴールキックでファンの感涙を誘った。身なりを整えて取材エリアに現れると、迷いなき口調でメッセージを残すのだった。
「最後のサントリー戦もそうでしたけど、チャンスが来たら見返してやろうと思っていました。きょうも同じです。悔いはないです。やり切りました。こんないい環境でできましたし、僕のラグビー人生は幸せでした」
会場を後にし、有志の引退パーティーに出席する。そして休む間もなく明け方の東京へ出かけ、シックス・ネイションズ(欧州6カ国対抗)のウェールズ代表対スコットランド代表戦のスタジオ解説を務めた。愛を貫くのである。

撮影:長尾亜紀