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July 13 2016 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

競技人生を支えた2人の存在 ~車椅子バスケットボール・千脇貢~

競技人生を支えた2人の存在 ~車椅子バスケットボール・千脇貢~

昨年10月に行われたアジア・オセアニアチャンピオンシップ(AOZ)で3位に入り、11大会連続となるパラリンピック出場を決めた車椅子バスケットボール男子日本代表。主力の一人として活躍したのが、千脇貢(ちわき・みつぐ)だ。昨年末からはドイツのブンデスリーガでプレーし、心身ともにさらなる高みを目指している。1カ月半後に迫ったリオデジャネイロパラリンピックでも、活躍が期待されている千脇。しかし4年前、彼の頭にあったのは「引退」の二文字だった――。

一気に遠のいたパラリンピック

千脇が車椅子バスケットボールを始めたのは、大学4年の時。それ以降、地元のクラブチーム「千葉ホークス」でプレーしてきた。ホークスは日本選手権13度優勝という全国でも指折りの強豪チームで、これまで何人もの日本代表を輩出してきた。そのため、常に周囲には日本代表クラスの選手がいる環境でプレーしてきた千脇が、代表入りを目指すのはごく自然なことだった。

車椅子バスケットボール・千脇貢選手

日本選手権13度の優勝を誇る千葉ホークスで、不動のレギュラーを張る千脇貢選手。

実際、千脇が初めて「日本代表」に触れたのは、2008年のことだった。北京パラリンピックを直前に控えた代表チームの練習試合の相手に抜擢されたのだ。その時、千脇は自分自身に手応えを感じていた。

「代表の選手相手にも、自分の思うようにプレーができたんです。それで『あれ、もしかしたらオレ、代表としていけるかも』って。いつかは、と思っていたパラリンピックが、グッと近づいたような気がしていました」

その予想通り、北京パラリンピック後、次の2012年ロンドンパラリンピックに向けて行われた第一次代表候補合宿に、千脇は招集された。合宿中も自分自身に手応えを感じていた千脇は、当然、第二次以降の合宿にも呼ばれると信じて疑わなかった。ところが、それから一度も彼の元には、招集の連絡は届かなかったのだ。

「正直、なんで呼ばれないのか、全くわかりませんでした。自分では十分にやれたと思っていたので……。しかもホークスでレギュラーの自分が呼ばれないのに、後から入ってきた若い選手が呼ばれたりしていたんです。やっぱりショックでしたね」

近づいていると思っていたパラリンピックは一気に遠のき、いつの間にか千脇の頭には「引退」の二文字が浮かぶようになっていた。

車椅子バスケットボール・千脇貢選手

代表候補の招集がかからず、「引退」を考えたこともあった。

枠外から中心選手へ

そんなふうに自信を失いかけていた千脇を救ったのは、及川晋平(おいかわ・しんぺい)ヘッドコーチ(HC)だった。ロンドンパラリンピック後、日本代表の指揮官に就任した及川HCは、千脇を代表候補合宿に招集し、さらには主力扱いした。

「最初の合宿の最終日に紅白戦をやったんです。その時、チーム分けが書かれたホワイトボードを見てビックリしました。パラリンピック経験者ばかりの中に、僕の名前があったんです。『嘘だろう!?』って思いましたよ。周りもビックリしていたと思います。なんであの4人と、これまで候補にも挙がっていなかった僕なのかって。レベルの高い彼らとなんて、とても無理だと思いました。どうせ、すぐに置いて行かれてしまうだろうと」

「4人」とは、現在代表のキャプテンである藤本怜央(ふじもと・れお)、藤本とともにダブルエースでありドイツでプロとしてプレーしている香西宏昭(こうざい・ひろあき)、北京、ロンドンと代表のキャプテンを務めた司令塔の藤井新悟(ふじい・しんご)、当時成長著しい若手として注目されていた豊島英(とよしま・あきら)だった。

その4人に千脇を加えた5人は、現在の主力ユニット(コート上の5人の組み合わせ)である。つまり、及川HCは就任当初から、この5人の組み合わせを考えていたのだ。

車椅子バスケットボール・千脇貢選手

今や、主力ユニットの一員として、日本代表にとって欠かすことのできない存在となっている。

及川HCは言う。

「僕としては、サプライズでも何でもなかったんです。正直、千脇が代表入りしないことが不思議でならなかった。彼は絶対に日本代表にとって必要な存在。ずっとそう思っていたんです」

まさに「捨てる神あれば、拾う神あり」である。「人生は何が起こるか、本当にわからない」と千脇は語る。

「晋平さんに呼んでもらえなかったら、代表どころか、もしかしたらバスケ自体をやめていたかもしれない。そう思うと、本当に感謝の気持ちしかないんです。僕は晋平さんに拾われた身。だからこそ、他の選手以上に『晋平さんのために』という気持ちが強い。それが一番と言っても過言ではありません」

コーチから教わった“一員としての自覚”

千脇にとって、もう一人、大きな存在がいる。京谷和幸(きょうや・かずゆき)現日本代表アシスタントコーチだ。京谷コーチは、千葉ホークスの先輩でもあり、2012年に引退するまで共にプレーしていた。

もともとサッカー選手としてエリートコースを歩んできた京谷コーチは、高校時代にはユース代表に選出。五輪代表候補にも名を連ねるほどのプレーヤーだった。高校卒業後はJリーガーとなり、将来を嘱望されていた。しかし、19歳の時に交通事故で車椅子生活となり、車椅子バスケットボールを始めたという経歴を持つ。そんな京谷コーチは、根っからのアスリート。プレーはもちろん、練習態度や競技に臨む姿勢にも厳しかった。

車椅子バスケットボール・京谷和幸現日本代表アシスタントコーチ

京谷和幸コーチ。アスリート魂のこもった熱血指導で、選手たちにげきを飛ばす。

千脇が千葉ホークスに入団して、しばらく経った時のこと。ある小さな大会で、千脇は初めて試合に出場する機会を与えられた。入団して数カ月は走るメニューしか与えられないという厳しい練習に耐え、ようやく掴んだチャンスである。意気揚々とコートに立ったに違いない。

ところが、わずか5分で5ファウルを犯し、退場させられてしまったのだ。5つ目のファウルを宣告された瞬間、千脇は頭に血がのぼり、「ふざけんなよ!」とばかりにレフリーをにらみつけた。それは、ほんの一瞬の出来事だった。

しかし、それを京谷コーチは見逃さなかった。試合後、千脇は京谷コーチにこっぴどく叱られた。

「オマエは、まだ新人かもしれないが、周りにしてみれば、千葉ホークスの一員。千葉ホークスは歴史あるチーム。オマエもその看板を背負っているんだから、今度レフリーにあんな態度を取ったら、辞めてもらうからな」

その言葉を、千脇は今も決して忘れてはいない。そして、代表として活動するようになった今、京谷コーチから教わった「自覚」をより感じている。

「今、僕は車椅子バスケの日本代表として見られていて、その僕の言動には、それなりの責任があると思うんです。僕一人の軽率な言動が、日本の車椅子バスケ全体の評価になってしまう。そのことは十分に自覚しています」

車椅子バスケットボール・千脇貢選手

12年越しの夢、日本代表選手としての自覚が千脇選手をさらに鼓舞する。

こうして、さまざまな人たちに支えられてきた車椅子バスケ人生。13年目にしてようやく実現するパラリンピックの舞台は、千脇にとっては恩返しのチャンスでもある。

車椅子バスケットボール

11大会連続でパラリンピック出場を決めた車椅子バスケットボール男子日本代表。リオでは過去最高の6位以上を目指す。

(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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