29歳の誕生日を迎える2010年には、日本の国籍を取った。それよりもっと前から、大阪府は東花園に住んでいる。
だからトンプソン ルークは、大勢の東洋人と会話をしていると「むっちゃ、楽しみ…。あ、ごめんなさい。関西弁、出てしまった」。鼻筋の通った顔を崩し、笑いに包まれる。
1981年に生まれたプロラグビー選手だ。2015年秋には、イングランドの地で国民的英雄集団の名脇役となった。
それから約1年の月日が流れようとしている2016年の晩夏も、慣れ親しんだ街で「私の仕事」に集中するだろう。
出身国のニュージーランドは、文句なしの楕円球大国だ。男子の夢は一様に、オールブラックスことラグビーのニュージーランド代表になることである。まだ登録名が「ルーク・トンプソン」だった後の日本人も、また然りだった。地元はクライストチャーチのクラブシーンで、ファイトを重ねた。
州代表選手権のカンタベリー州代表となるなど、頂上への階段に足をかけた。もっともこの人が務めるロックのポジションは、才気の集まりだった。ブラッド・ソーン、ルーベン・ソーン、クリス・ジャック。ライバルたちは皆、オールブラックスのジャージィを掴むこととなる。
キャリアアップの機会を得るべく、トンプソンは2004年に日本へ渡った。2、3年もすれば母国に戻るつもりだったが、2006年に移籍した東花園市の近鉄で、新境地を開く。ローカルな日本語を教わり、創部初の海外出身主将にもなった。
時を前後し、代表選手としても活躍する。
ラグビーの世界では、他の国の代表になっていない選手ならどの国の代表にもなれる。「当該国への3年以上の居住」という規定をクリアした無印のトンプソンは、日本代表として2007年、2011年と、4年に1度あるワールドカップへ出場したのである。
思ってもみない方向へ進むのが、人生というドラマだった。
身長196センチ、体重108キロ。国際クラスのロックにあっては決して大きくない。ただ、世界ランク2ケタ台だった日本では、強さと高さで信頼を集めた。
タッチライン際から投入されたボールを空中で競り合うラインアウトでは、横に並んだ相手の邪魔をかいくぐる場所にボールを呼び込む。一般的に評価のされづらい凄味をたまに評価されても、「それが私の仕事ね」と言うだけだった。
東洋の選手として参加したワールドカップは、人生を賭すべき祭典だった。その準備には膨大な時間を割かれるから、2度目の出場を最後にするつもりだった。多くのニュージーランド人と同様に、家族との時間を愛していたためだ。
考えを改めたのは、2012年に就任したエディー・ジョーンズヘッドコーチに請われたからだ。
「一度、合宿に参加してからでいいですか?」
そう告げて新生ジャパンのキャンプへ足を踏み入れると、それまでにない可能性を感じた。何かを我慢すれば、新しいものを得られそうな気がした。その後は、案の定、団らんの時を犠牲にする。イングランド大会のある2015年は、4月から宮崎県でほぼ缶詰の状態だった。
長男のヘンリー勇人くんが産まれそうだからと、5月下旬からの約3週間のみ一時帰宅を許された。
当時のジョン・プライヤーS&Cコーディネーターから渡されたトレーニングメニューを、近鉄の本拠地である花園ラグビー場併設のジムでこなす。自宅で長女の茉矢ルイーズちゃんの面倒を見ながら、妻のネリッサさんに誓った。
「次のワールドカップのメンバーに入ったら、そこを…最後にするから」
季節は、過ぎた。
日本代表は結局、過去優勝2回の南アフリカ代表などから3勝を挙げた。ゴールキッカーの五郎丸歩ら数名は全国区の著名人だ。専門誌の読者が選ぶチームMVPに輝いていたトンプソンも、関西地区を中心にその名を広めた。
「いま、ラグビーの人気がむっちゃ凄いね。うれしい。これからもできるだけ、がんばりたいと思います」
チームの広報担当者によれば、過熱したメディアのリクエストに嫌な顔ひとつしなかったという。
3度目の大舞台を振り返れば、ラインアウトの自軍ボール確保率を9割超とした。何よりタックルまたタックルで、試合の質を保った。
例えば、10月3日のミルトンキーンズはスタジアムmk。迫りくるランナーの足元にへばりついた。そのたびに対するサモア代表のぶちかましを食らい、相手のエースたるティム・ナナイ・ウィリアムズにも「彼はずいぶんとうちの選手からスマッシュを受けていたはずです」と驚かれた。
26―5で勝ち切った刹那、四つん這いのまま、立ち上がれなかった。
「皆、私の顔が好きで、私のところへアタックしてきたからじゃない?」
謙遜の美徳。
帰国後は近鉄の一員として国内最高峰のトップリーグを戦うも、間もなくけがで戦列離脱。「むっちゃ凄い…」「私の顔が…」と話した2016年1月の夜は、リハビリとトレーニングを終えた直後だった。
花園ラグビー場のスタンドの下には、中学校の視聴覚室2つ分のミーティングルームがある。ど真ん中にはフェルトペンの線の残ったホワイトボードがかかっていて、脇には年季の入った黒いソファと『ドラゴンボール』が並んだ木製の本棚がたたずんでいる。
ここでインタビューに応じたトンプソンは、話題が「ラグビーの好きなところ」に転じるや、その部屋を駆け回っていた子どもたちに目をやった。皆、選手の子息たちだった。
「これ見て。近鉄ファミリーね。皆、こんにちはー!」
少年がきょとんとするなか、人呼んで「トモさん」は続ける。
「近鉄が大事にしているのは、近鉄のファミリー。家族をめっちゃ大事にする。時々、この部屋を使ってクリスマスパーティーとかをやったり…」
そう。ラグビーから得られる喜びは、体をぶつけ合うチームメイトとの友情、そのチームメイトの家族との親睦にある。青い瞳の日本人ロックは、かく、語るのである。
気付けばこの土地で、多くの「家族」に触れた。
気付けばこの土地で、誇るべき戦士と謳われるようになった。
気付けばこの土地で、35歳の誕生日を迎えた。
この先も、この土地の選手として生きていきたい。
2016年8月。自身13季目のトップリーグに挑む。

トンプソン ルーク選手(中央) 撮影:長尾 亜紀