9月1日現在、36試合に登板し、2勝0敗19セーブという好成績を挙げているのが、石川ミリオンスターズの守護神・寺田光輝(てらだ・こうき)、24歳だ。最速143キロながら、奪三振数は登板回数(36回2/3)とほぼ同じ35個を数える。前期は投手部門のMVPに輝き、チーム優勝の立役者となった。今やリーグを代表する投手となった寺田だが、実は大学まで目立った成績を挙げてはいなかった。そのため、大学3年の時にはNPBへの目標を諦め、大学卒業後は就職するつもりだったという。そんな彼が、なぜ独立リーグへの道を選択したのか。寺田の野球人生に迫る。
プロを目指すきっかけとなった高3の敗戦
寺田が野球を始めたのは、小学3年の時。当時、興味があったのはサッカーで、周囲には地元のチームに入ることを宣言していたという。ところが、偶然自宅で見つけたグローブを手にしたことが、寺田の人生を変えた。
「ちょっと投げてみようかな、と思って、グローブを持って壁当てをやってみたんです。そしたら、投げるのがすごく面白くて。それでサッカーではなく、野球チームに入ることに決めました」

「投げることが楽しかった」と寺田。小学3年の時、壁当てから野球人生が始まった。
その後、中学、高校と野球部に所属し、夢中になって白球を追い続けたが、意外にも「プロ野球選手になりたい」と考えたことはなかったという。プロは、自分とはあまりにもかけ離れた存在として位置づけられていたからだった。
そんな寺田がプロを目指し始めたのは、高校3年の夏のことだった。寺田はその年、エースナンバーを背負っていた。彼いわく「本当のエースがケガをしたから」という理由だったというが、それでも春の大会では県でベスト4進出と、エースとしての役割を果たした。
だが、夏は3回戦で敗退を喫した。しかも、最後の試合はコールド負け。「責任はすべて自分にあった」と寺田は言う。
「当時、僕はコントロールが悪くて、その試合は特にストライクが全然入らなかったんです。まさに一人相撲での敗戦。僕一人のせいで負けたと言ってもいいくらいでした。もう、みんなに申し訳ないという気持ちしかなかったです」
自分への不甲斐なさと、チームへの謝罪の気持ち、そしてこんなかたちで高校野球が終わるという悔しさ――。そうした気持ちが、寺田にある決意を促した。
「よし、自分がプロで有名な選手になって、広い球場を借り切ろう。そして、もう一度、みんなを集めて試合をして、この恩を返そう」
18歳の寺田に、一切の迷いはなかった。

高校3年の夏の敗戦が、寺田をプロの夢へと駆り立てた。
転機となった恩師からの言葉
しかし、筑波大学での4年間、寺田はプロのスカウトが注目するほどの成績を挙げることはできなかった。ようやく登板機会を与えられたのは、4年になってからのことで、そのほとんどが、点差が大きく開いてしまった後の、いわゆる“敗戦処理”のようなものだった。
「やっぱり、プロになるなんて自分には無理だな」
いつの間にかプロへの道を諦め、普通に就職しようと考えていた。
そんな寺田の考えを変えたのが、ある人物からの言葉だった。
「ここで終わるのはもったいないじゃないか。野球を続ける道を探したらどうだ?」
寺田が1年の時から指導を受けていた奈良隆章(なら・たかあき)助監督からだった。
「4年の秋のシーズン途中だったと思います。奈良先生から『もったいない』って言われたんです。そんなふうに言ってもらえて、すごくうれしかったですし、ありがたいと思いました。でも、既に僕は就職が内定していましたし、たいした成績も挙げていない自分には無理だと思っていたので、『せっかくのお言葉ですが』とお断りしました」
だが、やはり心のどこかで「野球を続けたい」という気持ちがあったのだろう。寺田の気持ちに迷いが生じ始めた。そして1カ月間、悩みに悩んだ末に出した結論は「独立リーグに行って、もう一度NPBを目指す」というものだった。
「人生で初めて、あんなに長い期間、悩みました。最後は『このまま終わったら、きっと一生後悔する』と思ったのが決め手になりました。後悔するくらいなら、挑戦してみようと思ったんです」
それにしても、4年間で目立った成績を挙げることができなかった寺田に、なぜ奈良助監督は声をかけたのだろうか。
「寺田の学年には、優秀なピッチャーが結構たくさんいて、入学当初の寺田は正直言って、あまり目立つ方ではありませんでした。でも、いいボールを投げていましたし、もしかしたらという可能性は感じていました。でも、何より印象的だったのが彼の真っすぐな目でした。初めて会った時に、彼ははっきりと『プロになりたい』と、目をキラキラと輝かせながら言ったんです。実際、彼は目標に向けてストイックに頑張っていました。ケガもあって、レギュラーにはなれませんでしたが、どんな時も前向きに努力していた。力も着々とつけていたんです。そんな中、彼が『諦めます』と言った時、なんだか納得していないような気がしたんです。あんなに純粋にプロを目指していた彼には、やり切ったというところまでやってほしい。そう思ったんです」
寺田は言う。
「あの時、奈良先生が言ってくださらなければ、今の僕はありません。だから、本当に感謝しているんです」
見事トライアウトに合格し、寺田は独立リーガーとして野球人生を、再び歩み始めた。

トライアウトを経て、石川ミリオンスターズに入団。1年目から不動の守護神として活躍している。
傲慢な自分に気づいた一戦
寺田は前期、36試合中20試合に投げて1勝0敗11セーブをマーク。防御率はなんと0.00。つまり、一度も自責点を取られなかったのだ。後期に入っても、“不動の守護神”として、しっかりと役割を果たしており、現在、通算19セーブはリーグトップタイの数字だ。
しかし、寺田は謙虚な姿勢を崩さない。
「結果を考えずに、自分がやるべきことをやる。それだけだと思っています」
そんな彼にも、無意識に欲が出てしまった時期があった。それがピッチングに出たのが、8月18日の富山サンダーバーズ戦だった。8-4と石川が4点リードで迎えた9回裏、寺田はマウンドに上がった。ところが、いきなり先頭打者をストレートの四球で歩かせてしまったのだ。なんとか2死まで取ったものの、そこから二者連続のタイムリーを浴びて3失点を喫し、1点差にまで詰め寄られた。なんとかその後を凌いで逃げ切ったものの、寺田にとっては最悪の内容だった。
4点という点差を考えれば、寺田にとってそう難しい試合ではなかったはずだ。それが、なぜ――。要因は気持ちにあったと、寺田は語る。
「後期のはじめくらいまでは防御率とか何も考えず、とにかく必死で投げていただけでした。なのに、いつの間にか数字を気にしている自分がいたんです。このまま防御率が0でいけるんじゃないかっていう欲が出てきて、傲慢になっていた。それが富山戦でのピッチングに表れてしまったのだと思います」
その後、寺田は一度も自責点を取られてはいない。「自分がやるべきことをやるだけ」。再びそう思えるようになり、気持ちが軽くなったことが、好投につながっている。
好投の裏側にある“自信”と“信頼”
今、寺田は「野球が楽しくて仕方がない」という。抑えとしての「責任感と使命感」が、彼にやりがいを与えているからだ。とはいえ、チームの勝敗がかかっている試合の最後を締める抑えという仕事は、精神的には過酷なはずだ。だが、寺田のピッチングには決して力みがない。それは「自信」と「信頼」があるからだ。

「楽しくて仕方がない」という寺田の表情は、自信に満ちている。
「自信」とは、普段の練習からのものだという。実際、彼の練習を見てみて、特に印象的だったのがキャッチボールだった。寺田は他の誰よりも実戦に近いフォームで、1球1球丁寧に投げているように見えた。そして、ほとんどのボールが相手の胸元にコントロールよく収まっていたのである。
「僕はもともとコントロールに自信がなかったんです。それで大学2年の時に、どうしたらいいかと悩んでいて、ふと周りを見たら、試合で活躍しているピッチャーはみんなキャッチボールから丁寧に投げていました。それから僕も常に試合で投げているようなイメージでキャッチボールをするようになったんです」
それがマウンド上での自信になっているのだという。緊張する場面でも、ピンチになった場面でも、「いつも練習でストライクを投げられているのだから大丈夫」と思うと、自然と気持ちが落ち着くのだ。それが力みのないピッチングにつながっている。
そして「信頼」とは、バックの守備に対してだ。
「野球は僕一人でやっているわけではない。打たれても、バックのみんながいるから大丈夫という気持ちで投げているんです」

信頼するチームメイトと共に、勝利を目指す。
実際、バックに助けられたことは少なくない。例えば、6月12日の信濃グランセローズ戦。1点リードで迎えた9回裏、寺田は二連打を浴び、無死一、三塁というピンチを招いた。しかも、いずれも初球を打たれ、わずか2球でのこと。そのまま崩れてもおかしくはない状況にあった。
しかし、寺田は弱気にはならなかった。
「一瞬、どうしようと思ったんですけど、すぐに気持ちを切り替えました。『いや、バックがいるんだから、大丈夫。ここで自分が崩れてはだめだ』と」
まずは次打者を一ゴロに打ち取り、1死を取った。そして次の打者を一塁へのファウルフライに仕留めると、タッチアップした三塁ランナーをホームで刺し、なんとか1点を死守した。
「どちらもファーストのファインプレーで、本当に助けられました。改めて、一人でやっているんじゃないんだなと思いました」
そんな寺田のグラブには「感謝」という文字が刺繍されてある。
「この年になっても野球が続けられているのは、たくさんの人たちの支えがあるからこそ。BCリーグに来てから、そのことを強く感じるようになったんです。だから、その気持ちを忘れないようにグラブに入れました」
NPBへの目標は、自分ひとりだけのものではない――。

「感謝」の気持ちを胸に、NPBを目指す。
(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)