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October 06 2016 By 小林 香織

アイススレッジホッケー銀メダリスト「上原大祐」、車椅子のハンディを使命に変えたバイタリティに迫る(前編)

2002年、19歳でパラスポーツのアイススレッジホッケーを始め、2006年のトリノ、2010年のバンクーバーと2度のパラリンピックに出場。バンクーバーでは歴史的な勝利を飾り、悲願のメダルを獲得した。そんな華やかな競技人生を送ってきた上原大祐は、二分脊椎(※)という障害があり、幼い頃から車椅子に乗って生活している。

また、競技者・会社員と並行して2014年にNPO法人「D-SHiPS32(ディーシップスミニ)」を立ち上げ、障がい児およびその両親のサポート、障がい者と健常者が共有できる場づくり等にも尽力している。障がいというハンディキャップを前向きなエネルギーに変え、自らの使命を見いだした上原大祐の生き様を追った。

※二分脊椎…先天的に脊椎骨が形成不全となって起きる神経管閉鎖障害の一つ。 母胎内で胎児が脊椎骨を形成する時に何らかの理由で形成不全を起こし症状の軽いものは気付くことなく終わるが時に本来、脊椎の管の中にあるべき脊髄が脊椎の外に出て、癒着や損傷をしていることがある。(Wikipediaより)

「ソリ」に乗ってプレイする氷上の格闘技・アイススレッジホッケー

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「アイススレッジホッケー」と聞いてもピンとこない人も大勢いるだろう。これは、下肢に障がいがある人たちでもアイスホッケーができるようにルールを一部変更して行うスポーツだ。「スレッジ」と呼ばれるスケートの刃を2枚付けた専用の「ソリ」に乗り、両手にスティックを1本ずつ持ってプレイするスタイル。

アイスホッケー同様にボディチェック(体当たり)が認められており、「氷上の格闘技」との異名を持つほど、激しいスポーツなのだ。アイスホッケーが盛んな長野県に彼が生まれ育ったことは、きっと偶然ではないのだろう。

「私が競技を始めたキッカケは、アイスホッケーをごく身近に感じる環境があったことです。生まれ育った軽井沢の町内にスケートリンクが2つもあったし、1998年には長野で冬季オリンピック・パラリンピックが開催されました。さらに、私の出身高校のアイスホッケー部が県の代表として活躍する強豪チームで、当時、軽井沢で国体があったんです。その試合を見たとき、『めちゃくちゃおもしろいスポーツだ』と思いました」

当時から車椅子をたびたび壊すほどヤンチャだったという上原。彼に車椅子を提供してくれていた企業の社長であり、自身もプレイヤーだった人物から「おまえほど車椅子を壊すやつは他にいない、そのパワーは絶対にホッケーに生きる」と勧められたことも重なり、19歳のとき車椅子からスレッジに乗り換え、初めて氷上に降り立った。プレイしてみたら、案の定「超しっくりきた」そうだ。その後、ウイングと呼ばれるゴールゲッターのポジションで、彼は11年にわたり活躍することになる。

勘違いしている人も多いが、パラスポーツは障がい者「にしか」できないスポーツではない。障がい者「にも」できるスポーツだ。アイススレッジホッケーも例外ではない。車椅子に乗ったままプレイする車椅子バスケットボールやテニスと違い、アイススレッジホッケーは障がい者も健常者も日常的に乗っていない「ソリ」に乗ってプレイする。そしてチームワークが必要な団体競技。そんな点にも上原は惹かれたという。

2010年バンクーバーパラリンピックで歴史を塗りかえる勝利!銀メダル獲得へ

アイススレッジホッケーのチームには20~50代までの幅広い選手が所属していた。上原はよく周囲の人に「小さい頃からやっていないのに、よく代表になれましたね」と言われたそうだが、彼は「それもパラスポーツのおもしろさの一つ」だと語る。もちろん幼い頃から始めることがベストではあるが、大人になってから障がいを負った人は、その年齢からパラスポーツを始めることになる。したがって、何歳からでもパラリンピックを目指すことはできるのだ。

これまでの競技人生のなかで、上原がもっとも忘れられないエキサイティングな試合、それが2010年に銀メダルを獲得したバンクーバーパラリンピックでのカナダとの準決勝戦だという。世界の誰も予想しえない大どんでん返しの勝利だった。

上原大祐

「圧倒的格上のカナダを相手に勝利した準決勝戦は、いまだに鮮明に覚えています。カナダとは50回ほど対戦したことがありますが、私のホッケー人生で勝てたのはその1回だけ。とにかく守りに守って点をもぎとった試合でした。試合終了の1分半前までは、1対1だったんです。そのタイミングで私の目の前にパックが落ちてきて走り始め、後ろを振り向いたら一番信頼できるメンバーの高橋がいた。すかさず彼にパスを出し、それが通った時点で私の脳裏では、パックはもうゴールの中でした。彼から戻ってきたリターンをどこに向かって打ったか、正直覚えていませんでしたが、打つ前にゴールを確信できるぐらい厚い信頼関係があったんです。結局、3対1で勝利。勝てた要因はいくつかあると思いますが、その日の試合は雰囲気がいつもと違っていたんですよね。チームスポーツをしていると『いいパスしてやったのに何で決めないんだ』みたいに『~してやった感』が出るんですが、その日はそういった雰囲気がなく、チーム全員がフォローし合う空気が自然と生まれていました」

アメリカ修行の末引退…競技人生で得た「経験」と「縁」が一番の財産

上原大祐

歴史に残る好成績を残したバンクーバーパラリンピックの後、2012年に上原はアメリカのフィラデルフィアに飛んだ。2014年に行われるソチパラリンピックを見据え、修行するために。彼は2004~2006年、シカゴブラックホークスというチームに所属しており、時々アメリカに飛んでプレイしていたが、その頃から本場のアメリカで腰を据えてプレイしたいとの思いがあった。2013年までの1年間は、NHL(ナショナルホッケーリーグ)チームである『Philadelphia Flyers Sled Hockey Team』に在籍。上原にとってアメリカ滞在は、数年越しに叶った夢だったのだ。

車椅子ユーザーを受け入れてくれるホームステイ先が見つからず、ホテル暮らしからスタートしたり、いざ見つかっても最寄り駅がバリアフルで住めなかったり、いくつか難関はあったものの、競技者としての経験と共に「世界各国の友人」という一生の財産を手に入れた。

「向こうでは日本では考えられないくらいの数の試合に出て、アメリカ全土から『うちのチームにこないか?』と誘いを受けるほど、高く評価してもらいました。ホッケーだけじゃなく語学学校に通ったり、日本人会のような集まりに参加したりして交流を広げ、世界各国の友人ができたこともメリットでしたね」

上原大祐

また、日本にはないアメリカ人のホスピタリティに触れ、より「日本社会を変えなければ」との思いも深まったという。

「たとえば私が街中で階段の前にいたら、アメリカ人は『大丈夫? 手伝うよ』とすぐに声をかけてくれ、その場にいる人を集めて助けてくれます。エレベーターの前にいれば、当たり前に優先してくれます。でも、日本では真逆です。声をかけてくれる人も優先してくれる人も、ほぼいません。日本は『おもてなし』を堂々と謳っているけど、2020年までにはもっと考えなくてはいけないでしょう。あとはバリアフリーに関しても、日本はポーズだけの施設が多いんです。スロープはあるけど、『これは一体誰が上れるんだろう?』と憤りを感じるような設計だったり、スロープがあっても多目的トイレがなかったり、本質がない。それに比べてアメリカは、バリアフリーなら徹底してバリアフリーだし、そうじゃない場所はまったく違う。時間の正確性など日本にも優れた部分はありますが、ホスピタリティは圧倒的に低いと言わざるを得ません」

その後、アメリカ修行から帰国した上原は、思うような結果を出すことができず、2013年に選手を引退。競技人生で得た一番の財産は「経験」、そして「人との縁」だった。アイススレッジホッケー選手として銀メダルを持っていることで、そこを起点に新しいつながりをつくることができる、それは上原にとってかけがえのない宝になった。

 

後編に続く

 

特定非営利活動法人D-SHiPS32 船長(理事長) 上原大祐
公式HP:D-SHiPS32(現在リニューアル中)
公式Facebook:D-SHiPS32
BLOG: DAISUKE Official blog

小林 香織

小林 香織 Facebook

2014年デビューのフリーライター。現在、「恋する旅ライターかおり」名義で、恋愛・旅・ライフスタイルジャンルの執筆にも挑戦中。人生の豊かさ、可能性を広げるためのメッセージを発信したいと願っている。自由な人生バンザイ

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