TOPへ
October 26 2016 By 向 風見也

「平尾誠二の遺志を受け継ぐ」って、どういうこと? 逝去した「ミスターラグビー」の歴史。

2016年10月20日、平尾誠二さんが胆管細胞がんでこの世を去った。53歳だった。

この週におこなわれた日本最高峰ラグビートップリーグの各試合会場では、半旗が掲げられた。現地を取材する記者は、本人とあまり面識のない有名選手にまで平尾さんに関するコメントを求めていた。人呼んで「ミスターラグビー」の存在は、かくも大きかった。

もっとも本人は、しばしそのイメージを嫌っていることをにおわせていた。

「僕は、有名になりたいなんて思ったことはなかったです。有名になると制約されますわな、自分の動きが」

人は、人のギャップに惹かれる。ラグビー界の人なのに産業界や他競技にも興味を示していた平尾さん、クールなようで献身性を大事にしているように映る平尾さんは、有名なのに「有名になりたいなんて思ったことはなかった」と言うような平尾さんだからこそ、日本スポーツ界の普遍的なアイコンだった。

葬儀は23日、近親者のみでなされたという。

 

インタビューの場所に指定されたのは、東京は赤坂にあるANAインターコンチネンタルホテル東京の一室だった。

約束の時間になるとインターホンが鳴る。入り口の向こうでは、黒いスーツでノーネクタイの男性が姿勢を正して立っていた。平尾さんだった。

2007年の春の良き日。ウェブサイトの企画向けに、自身が携わってきたラグビーの魅力などを語ることとなっていた。

現役時代は神戸製鋼の主軸として7年連続での日本一を達成し、日本代表には主将、監督として携わった人だ。著書は二桁を超え、リーダーシップや状況判断などに関する講演も多数こなしている。

似た話を繰り返すのに慣れていたのだろう。この日も立て板に水で、中学1年で始めたラグビーとの関わりを流れるように話していた。

「皆には信じてもらえないけど、小学校のころは赤面症だったんです。でもラグビーはチームスポーツだし、意思表示が重要。そこで少しずつ変わっていきました」

「3年生になって、顧問の先生からキャプテンに任命されたのですが、最初は嫌でした。そういう意味では、僕は周りが言うほど自分がリーダーシップに長けているとは思っていないんです。『そうでもないなぁ』と。ただ、『そうでもないなぁ』と思っていることが、かえっていいのかもしれないと感じることはあります。不安があった方がいい、というか」

自らのプレー経験からか、「これくらい手を抜いても分からないだろうという考えが少しでもあれば、周りの仲間には分かる。常に体を張る、何をも犠牲にする、そういう精神が集約されないといいチームはできません」とも続けていた。

声は弾み、目は半透明に輝いていた。

 

多くの人が証言するように、平尾さんは広い視野でラグビーを見つめていた」ようだ。ラグビー界でのキャリアを基盤に、ラグビー界とは異なるポジションでキャリアを重ねようとしている向きもあった。日本サッカー協会の理事を務めたこともあった。

あの日のインタビューでは、親交のある建築家の安藤忠雄さんとの会話も紹介したものだ。

「僕が建築の込み入ったような質問をした時にね、安藤さんは『うん、それ、あまり見てないから知らん』と答えられたんです。あれだけの人が、自分の専門分野について聞かれて正直に『それ、知らん』と言える…。普通なら格好をつけたいところを、です。その人間の器はすごいな、と」

一方、自らの畑であるラグビー界での仕事には、この人の貴しとする遊び心がにじんでいた。

日本代表監督に就任したのは、1997年。史上最年少の34歳だった。インターネットがさほど普及する前だったなか、相手国の分析に長けていた。

選手の個性に合った指導も心掛けた。元気印だったある選手に「この試合で結果を出せなかったら…わかっているな」とハッパをかけ、好プレーを引き出したことがあった。

しかし1999年のワールドカップウェールズ大会では、未勝利に終わった。2000年にその立場を辞す。

神戸製鋼のゼネラルマネージャーとしては、2014年にギャリー・ゴールドヘッドコーチを呼び寄せて課題だった守備を整備。しかしゴールドは、たった1シーズンで国際リーグであるスーパーラグビーのシャークスに引き抜かれた。

翌年に連れてきたアリスター・クッツェーヘッドコーチも1年で退任し、そのまま南アフリカ代表を率いることとなった。いずれの名コーチも、神戸製鋼とは「他国からのオファーがあった場合はそちらを優先できる」といった内容で契約したとされる。

晩年の平尾さんは、日本ラグビー協会の理事を務めた。2016年からの日本代表新ヘッドコーチを選ぶ過程にも携わった。ここで白羽の矢が立ったのは、ジェイミー・ジョセフ。平尾さんが監督だった時代、当時のルールに基づいて日本代表に加えた元ニュージーランド代表選手だった。

ちなみに前任者は、ワールドカップイングランド大会で3勝を挙げたエディー・ジョーンズ。選手やスタッフなど、関わるものの全てをコントロール下に置く人だった。東洋の列島にとっての最善策を模索するジョーンズのことを、平尾さんは高く評価していた。

かたや、その平尾さんもチョイスに携わったジョセフは、対話を重んじるボスだった。トニー・ブラウンアタックコーチとの二人三脚でチームをつくる。目指すラグビースタイルもジョーンズのそれとは違っていて、「私はエディーではない」と穏やかに笑っている。10月初旬に発表された候補選手から32人を選抜し、11月5日、東京の秩父宮ラグビー場でイングランド大会4強のアルゼンチン代表とぶつかる。

 

平尾さんの逝去で悲しみに包まれているいまの日本ラグビー界は、2019年、自国開催のラグビーワールドカップを控えている。なされるべきことには、平尾さんのしてきたことを正当かつ細やかに振り返ること、そのしてきたことの真意を正確に把握することが挙げられよう。

「平尾さんの遺志を受け継ぎ、ワールドカップを成功させる」。全国各地の楕円球発熱地帯で発せられるこのダイナミックな言葉は、大変に地道な作業によって成立する。

1997年2月、ラグビーの日本代表監督に就任し記者会見で抱負を語る平尾誠二氏=東京都内のホテル

1997年2月、ラグビーの日本代表監督に就任し記者会見で抱負を語る平尾誠二氏=東京都内のホテル

向 風見也

向 風見也 Facebook Twitter Blog

1982年富山県生まれ。2006年に独立し、ラグビーライターとして「ラグビーマガジン」「ラグビーリパリパブリック」「スポーツナビ」などの雑誌やwebサイトで寄稿。書籍の執筆や構成、イベントの企画・司会も行う。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)。共著複数。

この記事が気に入ったら
いいね!しよう