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November 18 2016 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

元球児・鷲谷修也が「車椅子ソフトボール」に魅せられた理由

「鷲谷修也(わしや・なおや)」――高校野球ファンなら、この名前を記憶している人は少なくないだろう。彼は、今やメジャーリーガーとして活躍する田中将大(たなか・まさひろ)とともに、駒大苫小牧高校の黄金時代を築き上げたひとりである。高校2年夏には全国優勝メンバーとなり、3年夏にはレギュラーとして早稲田実業高校との決勝引き分け再試合という激闘を繰り広げた。高校卒業後、米国の短期大学留学中にメジャー球団のワシントン・ナショナルズからドラフト指名を受け、メジャーリーガーを目指したこともあった。その鷲谷が今、魅了されているスポーツがある。日本では2013年から本格的に始まった「車椅子ソフトボール」だ。今や自らチームを立ち上げ、主将として牽引している。果たして、鷲谷は車椅子ソフトボールのどこに魅力を感じているのか。そして、元高校球児を魅了してやまない車椅子ソフトボールとは――。

車椅子ソフトボールとの出合い

鷲谷は、紆余曲折の野球人生を歩んできた。高校で自らの限界を感じた彼は、プロを諦め、卒業後は単身渡米し、米国の短大に留学した。ところが、少しでも評価の足しになればと短大に送った高校時代のビデオを目にした野球部監督が勧誘してきたという。さらに、その野球部で4番として活躍する姿がメジャーリーグのスカウトの目に留まり、ドラフト指名を受けた。一度は断ったものの、翌年も指名を受けると、鷲谷の野球熱に火がつき、入団を決意した。

しかし、メジャーへの道はあまりにも遠かった。結局、一番下のルーキーリーグから昇格することはできず、2年目に解雇を言い渡された。それでも諦め切れなかった鷲谷は日本に帰国し、独立リーグの球団に入団した。しかし、ケガの影響で思うようなプレーができず、2年目に退団。そのまま、現役を引退した。

鷲谷は当時について、こう語る。

「独立リーグを辞めた時は、お腹いっぱいという感じで、もう野球はいいや、と思っていました」

翌2012年、鷲谷は上智大学に編入し、学業を再開させた。そして彼は大学では、陸上部に入り、野球とはほぼ無縁の生活を送るようになった。

そんなある日の事、大学4年の時に知人を介して知り合った友人がいた。中学2年の時の交通事故で脊椎を損傷し、車椅子生活となった松田瑶平(まつだ・ようへい)だ。松田はもともと車いすテニスの選手で、鷲谷も一緒にテニスを楽しんだこともあるという。その松田が教えてくれたのが「車椅子ソフトボール」という競技だった。

車椅子ソフトボールは、米国では約40年前から「全米選手権」が行われているほど人気の高い障がい者スポーツで、なかにはメジャーリーグの傘下に入っているチームも数多くある。日本で本格的に始まったのは2013年。当初、競技人口が少ないという理由によって、国内では健常者との混合チームが結成され、独自のスタイルで行われるようになった。現在では北海道から九州まで、全国に10チームある。

鷲谷が車椅子ソフトボールの存在を知ったのは、国内で始まったばかりの2013年のことだった。

「瑶平くんから『僕、車椅子ソフトボールを始めたんです。ぜひ、今度一緒にやりましょう』と言われたのが最初でした。聞けば、障がいの有無に関係なく、健常の僕も一緒にできるということだったので、『へぇ、そんなスポーツがあるんだ』と興味を持ちました」

すると、偶然にもその数カ月後、車椅子ソフトボールを体験する機会を得た。当時、大学の陸上部に所属し、本格的に活動していた鷲谷は、日本女子最速のスプリンター福島千里(ふくしま・ちさと)が所属する「ハイテクAC」の合宿に参加していた。すると、同じ敷地内にある専門学校で講師をしていたのが、当時から車椅子ソフトに深く関わっていた齊藤雄大(さいとう・ゆうた)だった。鷲谷とは同い年で、同じ北海道出身の元高校球児である齊藤が鷲谷のことを知らないはずはなく、「明日、練習会が行われるので、ぜひ来てください」と誘ってきたのだ。

翌日、練習会に参加した鷲谷は、驚きの連続だったという。

「僕も野球経験者ですから、まぁ、すぐにできるだろうと簡単に思っていたんです。そしたら、全然違っていた。守備についても、車椅子がうまく操作できなくて、簡単なゴロも捕ることができないんです。さらに車椅子に座った状態では、打つこともままならない。ところが、もう慣れている地元の大学の野球部員は、みんなすごくうまいんです。あまりにも自分が下手過ぎて、恥ずかしかったです(笑)」

車椅子ソフトボール・上智ホイールイーグルスの鷲谷修也選手

最初は簡単にできるだろうと思っていたと、恥ずかしそうに振り返る鷲谷。

その一方で、簡単にできないからこその面白さも感じていたという鷲谷は「また、やってみたいな」という気持ちになっていた。しかし、翌年は大学を卒業し、社会人1年目ということもあり、研修などで仕事以外に目を向ける余裕はほとんどなかった。自然と車椅子ソフトボールとも疎遠となっていった。

「支える」から「一緒に」

社会人2年目の2015年、北海道での練習会以来、時折連絡を取っていた齊藤から再び練習会への誘いの一報が届いた。鷲谷が住む東京を拠点としている「東京レジェンドフェローズ」というチームの練習会に、北海道から齊藤も参加するのだという。仕事にも少し余裕が出てきていたこともあったのだろう、鷲谷はその誘いを受け、練習会に参加した。そこで改めて感じたことがあった。

「車椅子ソフトでは、健常者で野球経験者の僕がうまいわけではなく、逆に下手だったんです。それが、なんだか新鮮に思えて、面白いなと感じました。障がいがあって、僕より野球の技術がなくても、車椅子ソフトでは僕よりうまい選手がたくさんいて、単純に『すごいな』と思いましたし、できない自分に悔しさも感じました。それで、いつの間にかはまってしまったという感じでしたね」

そして、彼はこう続けた。

「実は当初僕は、漠然とですが、これまでやってきた野球への恩返しのひとつとして、車椅子ソフトに関わることで何か社会貢献ができたらいいかなと思っていたんです。でも、今考えると、それってすごく上からの目線だったなと。貢献するどころか、逆に僕の方が教えてもらわなければいけない立場だったんですからね。今は単純にスポーツとして楽しんでいますし、勝負に勝ちたいと思ってやっています。車椅子ソフトをやるようになって『障がい者を支えてあげたい』ではなく、『みんなで一緒に』という考え方に変わりました」

その年の7月、鷲谷はフェローズの一員として日本選手権に出場し、初優勝の喜びをチームメイトと味わった。さらに9月にはその年初めて開催されたプロ野球の埼玉西武ライオンズが主催する「ライオンズカップ」にも出場し、主力のひとりとしてプレーした。そこには、すっかりチームに溶け込んでいる鷲谷の姿があった。

そして今年、鷲谷は母校の上智大学を中心とした「上智ホイールイーグルス」というチームを立ち上げ、自ら主将となった。チーム設立の背景には、「もっと多くの人に車椅子ソフトを楽しんでほしい」という思いがある。

「自分がやっていて、本当に面白いと感じているので、もっと他の人にも知ってほしいし、ぜひやってほしいなと思っています。そこで、母校の上智大学には社会福祉学科があるので、学生にもどうかなと思って先生に『こういう面白いスポーツがあるんですけど』という話をしたところ、だったらチームをつくろうかということになったんです」

車車椅子ソフトボール・上智ホイールイーグルスの鷲谷修也選手

「もっと多くの人にやってほしい」という思いから、鷲谷は今年、「上智ホイールイーグルス」を立ち上げた(写真提供:上智ホイールイーグルス)。

「個性を活かす」は高校時代の経験が源

今年7月、イーグルスは日本選手権に初出場した。結果は、12チーム中10位。当然、悔しさはあった。しかし、それ以上に鷲谷がうれしかったのは、楽しそうに、そして懸命に白球を追いかけるチームメイトの姿だった。それは大会後も練習に参加するリピート率が高いことからも、楽しんでもらえたのだと、鷲谷は感じている。

そして、鷲谷自身にも変化があった。彼が以前所属していたチームには経験者が多く、鷲谷は一選手としてプレーに専念していればよかった。しかし、経験が少ない イーグルス

では、主将の鷲谷がチームの戦略を考える役割も担っている。そこで彼が重要視したのは、いかに各選手を活かすことができるか、だった。

「例えば、障がいによって、どうしても打球を飛ばせない選手もいるんです。そういう選手の前に、打てる選手を並べて、ランナーがいる場面で打順がまわってくれば、送りバントのサインを出すことができます。そしたら、その選手には送りバントのスペシャリストとしての役割ができる。そういうふうにして、選手の個性を活かせる戦略を考えるようになりました」

「個性を活かす」という考えのベースとなったのは、高校時代の経験が大きいという。当時の鷲谷は打撃は得意だったが、守備ではミスが多い選手だった。しかし、監督は長所である打撃を買い、レギュラーに抜擢してくれたのだという。

「誰にでも得手不得手はある。だったら、いいものを引き出してあげた方が、伸びると思うんです。実際、僕自身がそうでしたから」

鷲谷の話を聞いていて、ふと感じたのは、彼が障がい者に対して、極めて自然体であることだった。果たして、その背景には何があるのだろうか。鷲谷に尋ねてみると、彼はこう答えてくれた。

「それは、米国での生活を経験したことが大きいのかもしれません。大学でもルーキーリーグでも、日本人は僕ひとりでしたから、差別的な言動はよくありました。そこでは僕がマイノリティだったんです。そういう中で、他人と違うところがあることに対して、『別にいいじゃん』という考えに、自然となったのかもしれませんね。だから、最初から障がいがあるとかないとか、僕にはあまり関係がなかったんです。それよりも、プレーヤーとして『うわ、この人たちすごいな』と単純にそれしかなかったですね」

今後は、さらにチームの活動を広げていきたいと考えている鷲谷だが、だからと言って、「自分が牽引する」というつもりは全くないという。

「僕はあくまでも一プレーヤーとして、このスポーツを楽しみたいんです」

鷲谷を魅了してやまない車椅子ソフトボール。そこには、性別や障がいの有無に関係ない、まさにダイバーシティの世界が広がっている――。

車椅子ソフトボール・上智ホイールイーグルスの鷲谷修也選手

「すごい」、その感情が鷲谷修也を車椅子ソフトボールへと駆り立てる。ひとりのプレーヤーとして、楽しみながらも、試合では真剣勝負に挑む。

(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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