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November 22 2016 By ゆるすぽ編集部

ただがむしゃらに追い求めた世界一の“夢”に向かって/ビーチフラッグス和田賢一

ただがむしゃらに追い求めた世界一の“夢”に向かって/ビーチフラッグス和田賢一

「おはようございます!」

太陽の光がまぶしい小春日和。日に焼けたその人は、屈託のない笑顔であいさつをしてきた。

「朝早くから本当にありがとうございます!」

柔らかな物腰と意志の強さ。その両方を兼ね備え、夢に向かって真っすぐに突き進むその姿には、多くの人が惹きつけられ、一瞬でとりこになってしまう魅力にあふれている。

男の名は、和田賢一。

ライフセービング競技の一つ、ビーチフラッグスのアスリートだ。競技を始めてからわずか4年半という短期間で、世界最高峰といわれる全豪選手権(2014年)の銀メダルを獲得して世界を驚かせ、今年は全日本選手権で3連覇を達成してみせた。これだけ聞けば、まるでシンデレラストーリーのように感じられるが、その人生は決して全てが順風満帆だったわけではない。本人の言葉と共に振り返る。

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和田とビーチフラッグスの出会い。そのルーツは、高校時代にまでさかのぼらなければならない。プロ野球選手になるのが夢だった和田は、小学2年の時に始めた野球が心から大好きな少年だった。だが、甲子園を目指して強豪校に入学した彼に、思いがけない試練が襲い掛かる。イップスと呼ばれる心因的な運動障害になり、ほとんどボールを投げることすらできなくなったのだ。

「これからどうやって生きていけばいいんだろう?僕はいったい何者なんだろうか?」

挫折を味わった和田は、大学に進学してからももがき続け、ようやく一つの答えにたどり着いた。

「人生は一度きり。やるか、やらないか。スポーツで何でもいいから、“世界一”になりたいって思ったんです」

それからの和田は、がむしゃらに自分の“夢”を探し続けた。

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まずはテニスを始め、ウインブルドン優勝を目指した。錦織圭選手が一部で注目され始めていたころ、四六時中、意識のある時はテニスラケットを握っているという話を聞き、自分は意識・無意識に関係なくラケットを握り続けようと考えた。

「今から始めて“世界一”になるには、他の人と同じことをしていては勝てないので」

授業中は利き手でラケットを握り、逆の手でノートを取る。歩いている時にはボレーの練習。キャンパス内の壁で壁打ちをして歩き、寝る時にもラケットを握り続けた。所属していたサークルの飲み会は、朝練のために断り続けた。そして、ついに迎えたサークル内の大会。その結果は…、

「ボロ負けでした(笑)」

こうして、テニスの“世界一”が遠いことを思い知らされた和田は、再び挫折を味わうことになった。その後、ダブルダッチ、総合格闘技、サーフィン、次々と自分の“夢”を探し続けたが、いずれも挫折に終わった。

「『振り出しに戻る』の繰り返しでした」という大学生活。「せめてスポーツに関わる仕事がしたい」と考えた和田は、スポーツトレーナーの道へ進むことを決めた。その中で受講した心肺蘇生法(CPR)の講習会で、講師が問い掛けたある言葉が、和田の人生に転機をもたらす。

『大切な人が目の前で倒れたとき、あなたはその人の命を守ることができますか?』

和田はこの時、心が締め付けられる思いを抱いた。

「今の自分には何もできない…」

この講習会の主催が、日本ライフセービング協会だったのだ。人の命を守るために尽力するライフセービング精神と、一瞬で勝負が決まってしまうスピード感あふれるビーチフラッグスという競技の魅力に、心を突き動かされた。こうして、挫折を重ねながら、がむしゃらに新しい“夢”を探し続け、「ビーチフラッグス」との運命的な出会いを果たした和田は、もう一度、“世界一”へと挑戦することを決意した。

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トレーナーとして働きながら、早朝と深夜に近所の公園の砂場でスタートの練習を重ねた。毎日100回の反復練習。時には通報され、時にはお巡りさんに職務質問をされ、時には夜中に騒いでいた不良の子たちを注意し、時にはカップルのケンカを仲裁し、時には人間の動きを超越して猫に猫と認められた(※注:本人談)。

「もしかしたら周りからは変な人だと思われていたかもしれませんが、むしろ公園の治安と平和を守っていたんじゃないかと思っています」

そんな日々を過ごし、いつしか反復練習が10万回を超えたころ、彼は日本一になっていた。

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「もちろんすごくうれしかったですし、自信になりました」。

だが、和田の心は十分には満たされなかった。なぜならば、目指していたのは“日本一”ではなく、“世界一”だったから。世界一の選手であるサイモン・ハリスを超えることこそが、和田の目指すところ。そこで和田はある決心をした。

「オーストラリアへと渡り、サイモン・ハリスに会いに行こう、と」

もちろんツテなどあるわけもなく、会える確約など当然どこにもない。お金もなく、語学力も不十分。それでも、自分の目標のためには、世界一から学ぶことが必要だと考えたのだ。「“世界一”になりたい」。その思いをかなえるためなら、どんないばらの道であっても突き進んでいこうと、固く心に誓った。オーストラリアでは日本食レストランでアルバイトをしながら、サイモンの練習場へと足を運んだ。最初は会ってさえもらえなかったが、通い詰めるうちに練習は見せてもらえるようになった。5カ月がたったころ、ついにサイモンと1歩目が並んだ。それに気付いたサイモンは驚き、ついに実際に教えを受けることができたのだった。そして…、クイーンズランド州選手権の決勝は、サイモンとの直接対決となった。師を打ち破った和田は優勝を飾り、さらにその1カ月後には、世界最高峰の全豪選手権で日本人初となる準優勝を成し遂げた。

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競技を始めてからわずか4年半での快挙に世界が驚いた。しかし、わずかに届かなかった“世界一”の座。世界最速といっても過言ではないスタートを身に付け、確かにスタートでは誰にも負けることはなかった。だが、その後の20mで走り負けた。次なる課題は明確だった。走力を高めるため、国内外を問わず世界中の陸上チームに練習参加を申し込んだ。しかし、どんなに夢に対する熱い思いを伝えたところで、陸上の選手ではない和田を受け入れてくれるチームはなかった。たった一つのチームを除いては…。ジャマイカの「レーサーズトラッククラブ」。あの人類史上最速の男、ウサイン・ボルト選手が所属する名門チームが、練習参加の受け入れを表明したのだ。陸上界で最も厳しいといわれる練習は想像を絶するものだった。「いや、本当に死ぬかと思いました(笑)」と、和田は笑って振り返る。

しかも最初のうちはチームメートから「空気のように扱われ」、「チン」(Chinese=中国人)と呼ばれていた。だが留学した3カ月間、チームで唯一1日も練習を休まず、必死に食らいついていくその姿勢が、チームメートにリスペクトの念を抱かせた。2週間後、呼び名は「ジャパン」、さらに1カ月後には「ケン」と移り変わり、やがて最大級のリスペクトの意を込めて「ブラザー」と呼ばれるようになった。和田のことを仲間、ファミリーとして迎え入れたのは、ボルトも例外ではなかった。基本的にボルトは一緒に写真に写ることを認めないといわれているが、和田は一緒に写真に写ることを許され、それどころか自宅にも招待されたのだった。

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それからの和田は、けがなどのコンディション不良にも苦しんだ。また新しいフォームにもチャレンジを続けた。

「僕は常に、変化を恐れず、新しいことにチャレンジしていきたいと考えています。短期的に見れば、結果が出ないことだってある。でも、変化を恐れて今の自分のままでいたら、いつまでたっても昨日の自分は超えられません。この2年ほどは、以前の和田賢一を捨て、そこから変わろうと、もがいて、もがいて、ようやく進むべき道筋が見えてきたところです」

和田は今年の全日本選手権で優勝を決めた直後、感極まって涙した。苦しみ、もがき続けたことが、決して無駄ではなかったことを証明してみせた。そのことで、ホッとして思わず涙がこぼれてしまったのかもしれない。だが、和田にとって、全日本選手権優勝は、あくまでもまだ通過点。次なる目標は、「来年4月に開催される全豪選手権での優勝です」と力強く宣言した。子どものころから、世界一になるという“夢”を持ち続けてきた。それは28歳の今も変わっていない。ただ真っすぐに、ただひたすらに。和田は今日も、その“夢”に向かって走り続けている。

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ゆるすぽ編集部

ゆるすぽ編集部

“みんなでつくるスポーツニュース”をコンセプトにwebサイトを展開。(http://www.yurusupo.com/)ファン目線を大事にし、スポーツニュースで報道される以外のさまざまなスポーツネタをゆる~く紹介しています。「ボーダレス」にも記事を展開。

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