2016年10月20日、「プロ野球ドラフト会議」が始まって2時間半が経った頃、信濃グランセローズ球団会長の携帯が鳴った。
「指名されたぞ!」
その声に、笠井崇正(かさい・たかまさ)はホッと一息ついた。間もなくして、目の前のパソコンに映し出されたサイト画面が更新され、横浜DeNAの育成枠ドラフト指名1位の欄に、自らの名前が記載されているのを確認した。じわじわとうれしさが込みあげてきた。1年前、自らの潜在能力を信じ、一念発起して、BCリーグの門を叩いた。その決断が、間違いではなかったことが証明された瞬間だった。
ドラフト指名につながった最後の2試合
「圧倒的な存在にならなければ、プロには行けないと思っています」
今年6月、笠井はそう語っていた。その時は、4カ月後にプロへの扉が開かれるとは思っていなかった。
当時、彼はグランセローズで投手として中継ぎを務めていたが、自らの目指すべきポジションは「抑え」だと考えていた。しかし、そこには安定感抜群の齋藤研志郎(さいとう・けんしろう)がいた。笠井は、その齋藤を尊敬するライバルとして見ていた。彼を上回るピッチングをすることが、当面の目標だった。そして、その先にこそ、プロへの道があるように感じていた。
チャンスが訪れたのは、シーズン後期に入って1カ月後、7月24日のことだった。その日の練習前、いつものように投手コーチから、先発、2番手、中継ぎ、抑えの順に名前が呼ばれた。すると、いつもなら最後は「笠井」(中継ぎ)「齋藤」(抑え)と呼ばれるはずが、その日は「齋藤」「笠井」の順に呼ばれたのだ。

いつもと逆順に名前を呼ばれ、心底驚いたという笠井。
「正直、全くの予想外でした。確かに、齋藤さんは少し調子を崩していました。失点を喫したりもしていたのですが、それは野手のエラーも絡んでいたので、すべて齋藤さんの責任というわけではなかったんです。なので、本当に驚きました。ただ、自分にとっては大きなチャンスだと思ったので、改めて気を引き締め直しました」
その日以降、笠井は抑えとして投げ続けた。しかし、試合展開としては、同点あるいは4、5点リードという場面での登板が続き、なかなか抑えの存在価値ともいえる「セーブ」がつく場面は訪れてはくれなかった。
ようやく「その時」が訪れたのは、9月11日、福井ミラクルエレファンツ戦だった。残念ながら、チームの優勝の可能性は消えていたものの、シーズンも残すところ2試合となっており、プロのスカウトにアピールするには大事な試合だった。また、ホーム最終戦ということもあり、スタンドに駆けつけた観客も気合が入っていた。
そんな中、4-3と1点リードで迎えた9回表、笠井はマウンドに上がった。抑えとしてはこれ以上ない見せ場である半面、大きなプレッシャーがかかる場面でもあった。スタジアムのすべての視線が、笠井に注がれていた。
しかし、笠井は意外にも落ち着いていた。気持ちのコントロールには多少なりとも自信があった。そのため、プレッシャーというよりも、程よい緊張感に包まれていた。
「こういう場面では、技術うんぬんではなく、気持ちの方が重要だと思っています。気持ちを落ち着かせるためには、まずはマウンドに行くまでの準備をしっかりとやること。あとは、マウンドに上がってしまったら、もう自分の力を100%出すだけです。『もし打たれたらどうしよう』と弱気にならずに、『打たれても、自分を使った監督、コーチの責任』というくらい、気持ちを軽くしておく。そうすることで、余計なプレッシャーを自分にかけないようにしておけば、力が発揮しやすいんです」
反省するのは、マウンドを降りてからで十分。マウンド上では、あくまでも強気の姿勢を崩さないのが、笠井流のコントロール方法なのだ。
その試合、笠井は内野フライ、三振と簡単に2死をとった後に、ランナーをひとり出したものの、最後は内野ゴロに仕留め、難なく1点差を死守した。そして、初めて「セーブ」がついた。抑えとしては、何よりうれしい数字だった。
さらに試合後、記者から驚きの報告があった。なんと、自己最速の151キロが出ていたのだという。残念ながら球場の掲示板には球速が表示されていなかった。そのため、チームの誰も知らない事実だったが、記者が持っていたスピードガンには確かに「151」の数字が映し出されていたのだ。
「正直、自分では150キロ台のボールを投げた感覚は全くありませんでした。だから、どのバッターの時の、どのボールかはわからなかったんです」
しかし、これは単なるマグレではなかった。2日後のシーズン最終戦の石川ミリオンスターズ戦でも、150キロを計測したのだ。この時は、球場の電光掲示板に、しっかりと「150」という数字が表示され、スタンドが沸いた。実はこの時、横浜DeNAの球団スカウトが視察に来ていた。1カ月後の指名につながったことは言うまでもない。

マウンド上では、とことん強気。それが、落ち着いたプレー、剛速球、そしてドラフト指名へと笠井を導いた。
布石となった後期開幕戦での「降板」
実は前期の終盤、笠井は調子を落としていた。最大の原因は、疲労にあった。高校時代までは、年に何度かの大会に向けてピークをつくればよかった。しかし、独立リーグでは週末の試合が何カ月も続く。それに耐え得るだけのスタミナが不足しており、また調整方法も手探り状態だったのだ。
調子を戻すことができないまま、前期が終了し、すぐに後期へと突入した。その開幕戦、信濃グランセローズは東北楽天二軍との試合に臨んだ。0-2とビハインドを負った8回表、2番手としてマウンドに上がったのが笠井だった。その回を抑えれば、チームはまだ逆転する可能性が十分にあった。
しかし、ヒットに味方のエラーと四球が重なり、笠井は無死満塁というピンチを招いた。それでも、後続を三振と内野ゴロに仕留め、なんとかランナーをかえさずに2死までこぎつけた。あと1人抑えれば、無失点で切り抜けることができる。当然、笠井は自分がこのまま続投するものと思っていた。
ところが、あえなくピッチャーの交代が告げられ、笠井は降板となった。
「え、ここで?」
イニングの途中で交代を告げられたのは、初めてのことだった。しかも、2死だというのに……。笠井は不思議で仕方がなかった。しかし、後にそれが、自らのことを考えたうえでの降板だったことに気づいたという。
「今思えば、あの時、あのまま投げていて、もし失点するようなことがあったら、僕は悪いイメージの中、降板となったはずです。そうなれば、さらに調子を落としていたかもしれません。だから監督は、僕にいいイメージのまま、マウンドから降ろそうとしたんじゃないかなと。実際、僕はその後、徐々に調子を上げていったんです。それが、抑え転向につながり、そしてドラフトでの指名にもつながったのだと思います」
4年前、笠井は「自分には合わない」と判断し、名門・早稲田大学野球部をわずか2日で退部した。その後3年間、勝負の世界を離れた。その彼が、今、プロの世界へ羽ばたこうとしている。笠井自身、全く予想していなかったことだった。

予想外の展開。大きく開けた野球人生に、笠井の目は希望に満ちている。
「本来なら、僕は今年、就職活動をしていたんですよね。公務員の試験を受けていたかもしれない。その僕が、来年からはプロとしてプレーするんですから、自分のことながら、人生ってわからないなって思います。でも、こんなこと、誰にでも起こるわけじゃない。どこまで通用するかはわかりませんが、とにかく精いっぱいやります。それだけです」
果たして、笠井のプロ野球人生はどんなものとなるのか。わずか1年で「大どんでん返し」をやってのけた彼のことだ。きっと、「続き」を見せてくれるに違いない。
(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)