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December 16 2016 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

車椅子バスケ・ブンデスリーガ日本人第一号の存在 ~伊藤由紀~

今や6人もの日本人選手がプレーするドイツの車椅子バスケットボールリーグ・ブンデスリーガ。その日本人第一号として歴史の扉を開けたのが、伊藤由紀(いとう・ゆき)という人物であることは、ほとんど知られていない。健常者でありながら、車椅子バスケに魅了され、18年間にわたってドイツの地でプレーし、現在は指導者として車椅子バスケ界に身を投じている伊藤に迫る。

一瞬で心を奪われた車椅子バスケとの出合い

すべての始まりは、日本体育大学1年の時に見た1本の映像にあった――。

伊藤は中学、高校とバスケ部に所属し、高校時代はキャプテンを務めた経験もある。しかし、全国のトップ選手たちが集う日体大では、実力の差を感じ、バスケ部に入ることはできなかった。初めて訪れたバスケのない生活に、伊藤はぽっかりと穴が開いたような気がしていた。何かバスケの代わりとなるものが欲しいと思っていた。

そんなある日のこと。伊藤は、「生涯スポーツ」の授業でパラリンピックのビデオを見た。映し出されていたのは、「車椅子バスケットボール」だった。車椅子を自在に操りながら、華麗にドリブルしたり、シュートをしたりする選手のプレーに、伊藤は衝撃を受けた。

「それまではパラリンピックも車椅子バスケも、全く知りませんでした。その時に初めて見て、障がい者がこんなふうにプレーするスポーツがあるんだ、と興味がすごくわいたんです」

授業が終わると、伊藤は早速教授に聞き、日本にも車椅子バスケのチームがあることを知った。すぐに紹介されたチームの練習を見学に行き、そのままマネージャーとして活動し始めた。さらに伊藤は、「障がい者スポーツ指導者」の資格も取得するなど、その動きは早かった。もともと福祉にも興味があった彼女にとって、自らが青春を捧げてきたバスケと興味が兼ね合わさった「車椅子バスケ」は、まさにうってつけといってよかった。

そんな彼女にとっての楽しみは、月に一度、病院で行われる体験会だった。当時、国内では、車椅子バスケは障がい者のスポーツとして認識されており、健常者がプレーすることは想定されていなかった。そのため、伊藤もふだんはあくまでもスタッフのひとりとして支援する側にあった。しかし、その体験会は障がいの有無に関係なく参加することができ、伊藤も参加者たちと一緒に選手たちに車椅子操作を教えてもらい、プレーすることができた。とはいえ、当時は自らが選手としてプレーするなどとは考えていなかった。

「障がい者の」から「誰もが参加できる」スポーツへ

伊藤は将来、障がい者スポーツ関係の仕事に就きたいと考えていた。そこで、視野を広げるため、大学4年の時に、交換留学生として、ドイツ・ケルンへと渡った。それが、伊藤の人生を大きく変えることとなる。

留学前、伊藤はドイツでは健常者も車椅子バスケを楽しんでいるという情報を得ていた。そこで、ケルンに到着してわずか2日目には、地元チームを見学に行った。すると、見学だけのつもりが「一緒にやりましょう」と誘われ、その日のうちにチームメイトとなった。

それからというもの、伊藤の生活の中心はもっぱら車椅子バスケとなった。

「週に2回の練習日には欠かさず出ましたし、週末には試合やイベントに連れて行ってもらいました。とにかく四六時中、車椅子バスケのことを考えていて、正直言って、大学の授業よりも車椅子バスケの方が優先でしたね(笑)」

車椅子バスケ・ブンデスリーガ日本人第一号、伊藤由紀

ドイツでは「誰もが参加できるスポーツ」だった車椅子バスケに、伊藤は虜になった。

それにしても、なぜ伊藤はこれほどまでに車椅子バスケの虜となったのか。その理由を、彼女はこう説明してくれた。

「自分がずっとやってきていた健常のバスケとは違う面白さが、車椅子バスケにはあったんです。例えば、車椅子とボールを同時に操作するということだったり、パスひとつするにも、ローポインターに対しては、相手が取りやすいところにきちんとパスをするとか…。もともとバスケが大好きだったので、その同じバスケで、違うチャレンジができるというのが楽しかったんです」

そして、もうひとつ理由があった。ドイツの車椅子バスケットボールリーグでは、障がいの有無だけでなく、性別や年齢で分けることはなく、また外国人枠も設けられていない。伊藤は「これこそが、まさにインテグレーション(統合)だ」と感じたのだ。

「障がいの有無なんて取っ払って、みんなが同じ目線になれるというのは、それまで味わったことのなかった経験でした。そんな環境が、当時はドイツ語もたどたどしかった外国人である私にとっても、とても居心地が良かったんです」

1年目、伊藤はチームの練習には参加していたが、選手として正式に登録してはいなかった。わずか1年で帰国することを考えれば、当然のことだった。しかし、勉強の幅をさらに広げたいと留学の期間を1年延長。それと同時に「もう1年いるのならば、登録してはどう?」という誘いを受け、2年目からリーグ戦にも出場するようになった。

2年目の留学を終えた後、伊藤は一度帰国し、日体大を卒業すると、当時日本には全くなかった「予防・リハビリテーションスポーツ科」のカリキュラムを受けるためにケルンスポーツ大学大学院に進学することとなり、再びドイツへ。もちろん、そこには車椅子バスケを続けたいという気持ちがあり、伊藤をドイツへと向かわせたことは言うまでもなかった。

そしてそれ以降、伊藤はドイツを拠点に、本格的な車椅子バスケ中心の生活を送るようになっていった。チームはリーグの4部から3部へ、3部から2部へ、そして2006年には2部から1部へと昇格し、伊藤はドイツ・車椅子バスケットボールリーグのトップであるブンデスリーガ第一号の日本人プレーヤーとなった。と同時に、伊藤の車椅子バスケにかける割合も増えていった。

「徐々にチームが強くなっていく様は、まさに中学、高校時代の部活を彷彿とさせるものがありました。それが私にとって、大きかった。正直言って、生活の一番のモチベーションは車椅子バスケでした」

当時、伊藤が所属していたケルンには、3つのチームがあり、それぞれリーグの1部、2部、3部に所属していた。伊藤は1部で戦うトップチームでプレーしながら、2005-06シーズンからは3部チームのヘッドコーチ(HC)を務めるようになっていった。

車椅子バスケ・ブンデスリーガ日本人第一号、伊藤由紀

1部で戦うトップチームで選手として活躍しつつ、ヘッドコーチとしても、その手腕を見せることに。

「車椅子バスケはもういい」と思った現役終盤

そんな伊藤も、一度、車椅子バスケから離れたいと思ったことがある。伊藤は、2010-11シーズン、交通事故による肩のケガのために1年間、休養を余儀なくされた。その時は「人生の目標を失った」と思うほど、落胆したという。実は、車椅子バスケ界における世界のスーパースターである、当時カナダ代表のパトリック・アンダーソンがケルンに移籍してきたシーズンでもあった。せっかくのチャンスだというのに、ケガで一緒にプレーすることができない自分の運命が腹立たしかった。

「あのパットと一緒のチームでプレーすることができると、心の底から楽しみにしていました。今までこのチームで一生懸命頑張ってきたご褒美だと思っていたんです。なのに、シーズンイン直前に交通事故に遭ってしまった。幸い命に関わるようなケガではなかったのですが、それでも休養することになり、パットとプレーするという夢が断たれました」

そして伊藤はそのシーズンを最後に、学生時代から所属していた1部リーグ所属のケルンから、2部リーグのカイザースラウターンのチームへと移籍した。レベルを下げてでも、プレーしたいという気持ちの方が強かった。しかし、アウトサイドからのシュートと視野の広さを武器とする自分を理解してくれていたチームメイトがいたケルンと違い、新しいチームでは自らの強みを生かすことができずにもがき苦しんだ。仕事をやりながらの選手生活で疲労も蓄積し、伊藤は心身ともにダウン。移籍後、3シーズン目の途中で、チームを離れた。当時はもう、車椅子バスケを目にすることさえも嫌になっていた。

「自分が身を置きたいと思っていた環境に戻ることも許されず、プレーにおいても自分に不甲斐なさを感じ、若手へのジェラシーが出てきてしまって、それに対する気持ちの処理がうまくできなかったんです」

しかし、1年間の休養後、カイザースラウターンのBチームが4部から3部へと昇格したのを機に、伊藤に誘いの声がかかった。自分を必要としてくれる場所があることがうれしく、伊藤は再びコートに戻っていった。やってみると、やはり車椅子バスケは楽しかった。そして、その時から自らのレベルアップに必死だった車椅子バスケから、楽しむ車椅子バスケへと、変わっていった。

車椅子バスケ・ブンデスリーガ日本人第一号、伊藤由紀

車椅子バスケは、伊藤を魅了して離さなかった。「完全にはやめられない(笑)」と、今も年に一度、プレーヤーとしての時間を楽しんでいる。

その後、伊藤は2014-15シーズンに現役を引退し、現在はヴィースバーデンの3部リーグに所属するチームのヘッドコーチとして指導している。ただし年に一度、ドイツの州対抗で行なわれる女子選手権の時だけはプレーヤーに戻るという。それが、伊藤にとって何よりの楽しみであることは想像に難くない。

そんな中、今シーズンは日本人プレーヤー6人がトップの1部リーグで鎬を削っている。いち早くブンデスリーガで戦ってきた伊藤にとって、ひと昔前までは考えられないことだった。

「本当にうれしいことですよね。少し前までは、海外の選手に比べて、日本人選手のレベルは低く見られがちだったのが、今では『日本には、いいプレーヤーがいる』とか『うちのチームにも欲しい』という声をよく聞くんです。日本人として、とても誇りに思います。実は、以前から『日本にはいいプレーヤーがたくさんいるんだよ』と、ことあるごとに言っていたんです。今では、みんなもう、それを知ってくれている。それが何よりうれしいですね」

夢中になって18年。今は指導者として車椅子バスケの魅力を伝えようと、奮闘している。

夢中になって18年。今は指導者として車椅子バスケの魅力を伝えようと、奮闘している。

伊藤が学生時代に初めてドイツの地を訪れ、車椅子バスケの世界に身を投じて、はや18年。彼女は今、ドイツを拠点とし、「スポーツ療法士」としてリハビリセンターで働きながら、車椅子バスケの指導を続けている。現役は離れたが、それでも車椅子バスケへの情熱は変わらない。

「自分が経験してきた、誰もが楽しめるという車椅子バスケ特有の面白さを、指導者として伝えていきたいと思っています」

これからも、車椅子バスケの世界と関わっていくつもりだ。

車椅子バスケ・ブンデスリーガ日本人第一号、伊藤由紀

ボールと車椅子を巧みに操るその手を大きく上げて、選手とハイタッチする伊藤。これからも自身が惚れ込んだ車椅子バスケへの情熱は変わらない。

(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)

 

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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