「アジア初」開催として盛大に行われた1964年の東京オリンピック。その約1カ月後、世界で初めて「パラリンピック」という名のもとに障がい者スポーツの大祭典が行われた。その東京パラリンピックで通訳ボランティアとしてイタリア選手団をサポートしたのが、吉田紗栄子さんだ。当時、大学生だった吉田さんの目に映った「パラリンピック」とは、どんなものだったのか。そして、3年後に2度目の「東京パラリンピック」を控えている今、何を思うのか。吉田さんにインタビューした。
ローマから始まった「パラリンピック」との縁
当時、日本女子大学3年生だった吉田さんが、東京パラリンピックに通訳ボランティアとして参加することになったきっかけは、日本赤十字青少年課で翻訳ボランティアとして活動していた大学の友人からの誘いだった。その時、吉田さんはすでに東京オリンピックの通訳として働くことが決まっていた。その流れで、パラリンピックの通訳ボランティアも「何の躊躇もなく引き受けた」という。
もう一つ、吉田さんが「躊躇なく引き受けた」理由があった。当時の日本は、障がい者がスポーツをするという発想自体、ほとんどなかった時代である。そのような時代に、障がい者スポーツの国際大会の存在は、ほとんど知られていなかったことは容易に想像することができる。
ところが、吉田さんは既に知っていた。実は東京大会の4年前、1960年の1年間、吉田さんは国連の職員だった父親の仕事の関係で、ローマに住んでいた。その年、ローマではパラリンピック(当時の名称は「国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会」)が開催されていたのだ。
「その時に、『オリンピックの後に、障がい者が行う大会が開催されるんですよ』という話を耳にしました。残念ながら、実際には見に行くことはなかったのですが、それでもそういう大会があるということはその時に知っていたので、4年後、東京大会のボランティアを頼まれた時には『あぁ、あの時言っていた大会ね』と、何のためらいもなく引き受けました」
パラリンピックが開催された年にローマに住んでいたという偶然に、吉田さんはパラリンピックとの深い縁を感じている。
大きな衝撃を受けた意識・境遇の違い
大会の存在を知っていたとはいえ、初めて目の当たりにした「パラリンピック」は、吉田さんにとって驚きの連続だった。なかでも強く印象に残っているのは、吉田さんが担当したイタリア代表団をはじめ、欧米の先進国の代表選手たちと、日本の選手たちとの境遇の違いだった。
「先進国の選手たちは、普通に仕事をして、普通に結婚をして家族も持っていると言うんです。その中でスポーツを楽しんでいると。彼ら彼女らにとって、車椅子に乗っていること自体は別に特殊なことではなく、『車椅子に乗っているひとりの人』であるだけ。ただそれだけだったんです」

1964年の東京パラリンピックで、通訳ボランティアとしてイタリア選手団をサポートした吉田紗栄子さん。
翻って日本では、障がいのある人を外で見かけるということは、皆無に等しかった。吉田さんによれば、「傷痍軍人くらい」だったという。当時、多くの障がい者は病院や施設の中で生活することがほとんどで、スポーツどころか、一般社会との接点はほぼない状態にあったようだ。そんな中、東京パラリンピックでは日本選手団団長を務めた、「日本における障がい者スポーツの先駆者」である故中村裕氏を中心に、病院や施設から選手をかき集め、即席の日本代表団がつくられた。
そんな時代を知る吉田さんにとって、現在の状況は、1964年東京パラリンピックがもたらした大きな「財産」と映っている。
「あの時、代表として出場した選手たちが海外の選手たちを見て、『自分たちも』と、それこそ死にもの狂いで環境を変えようとしてきた。障がい者が『隠されてきた』時代において、外に出る勇気というのは並大抵のものではなかったはずです」
また、東京パラリンピックは吉田さん自身にも「財産」をもたらしてくれたという。一級建築士である吉田さんは現在、「高齢者と障がいのある人たちが快適に暮らせる家づくり」をテーマに、住宅設計を手掛けている。きっかけは、東京パラリンピックで見た、ある光景にあった。
オリンピックが幕を閉じた代々木の選手村では、パラリンピックに向けた工事が急ピッチで行われていた。当時、大学で住居学を専攻していた吉田さんは、その様子を大きな関心を持って見ていた。
「食堂の入り口にはスロープが付けられ、トイレは車椅子が入れる幅を確保するために、ドアを外して入り口を広げ、カーテンで仕切っていたんです」
初めて目の当たりにした「バリアフリー化」に、吉田さんは心を突き動かされ、その後「一生の仕事」としたのである。
2020年、「財産」をもたらす大会へ
そんな吉田さんには、2020年東京パラリンピックにおける「思い」がある。ひとつは選手村の設計についてだ。吉田さんは、1964年の後も、1972年ハイデルベルク大会(当時西ドイツ)、1976年トロント大会(カナダ)とパラリンピックにボランティアとして携わった。
「トロント大会では、選手村が大学の学生寮だったんです。エレベーターはスペースが広くありませんでしたから、開会式や食事の時間の時には車椅子の選手たちが1時間以上も待たなければいけませんでした。2020年東京パラリンピックの選手村は、下の方の階は車椅子選手たちが使えるようにフラットなフロアにするなど、世界中のパラリンピック選手を迎えるという目線で作ってもらえたらなと思うんです」
また、吉田さん自身が実現させたいと考えているプランもある。それは、世界の代表選手たちと日本人との交流の場をつくることだ。
「強い選手はずっと競技が続くけれど、早くに負けてしまった選手は、あとの大会期間中は試合を観戦するか帰国してしまうかだけだと思うんですね。そういう選手たちを自宅に招いて日本のありのままの姿に触れて欲しいと思っています。車椅子ユーザーたちがどんなことができて、逆にどんなことが必要なのかということが、実際に見て知ってもらえる機会にもなる。障がいのある人たちへの理解や、自分たちが住む家の『バリアフリー化』の重要性にも気づくことができるのではないかと思うんです」
パラリンピックは2008年北京大会以降、エリート化が進み、オリンピックと同じように、「4年に一度の世界最高峰のスポーツ大会」としての道を足早に突き進んでいる。しかし、「スポーツ大会としての存在価値」のみならず、ノーマライゼーション社会の実現や、競技で使用される用具の開発による福祉機器の充実など、「社会を変える・見直す」という存在価値も持ち合せているのが、パラリンピックではないだろうか。
そんな特性を持つパラリンピックに大きく影響を受け、ボランティア活動で得た経験がその後の人生の礎となっている吉田さんは、こう語る。
「もし、あの大会に関わっていなかったら、私はまったく違う人生を歩んでいたと思います。この50年間、ずっとパラリンピックの中にいるという感じ。だから私にとって、東京パラリンピックは過去のものではなく、今も続いているんです」

パラリンピックでの経験が、後の人生のつながったと話す吉田さん。2020年を前に、今も目を輝かせている。
スポーツのみならず、さまざまな分野において、「人」「社会」に大きな影響をもたらす「パラリンピック」。果たして3年後、2度目の東京パラリンピックでは、どのような「財産」が創出されるのだろうか。
(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)