10月7、8の両日、東京で初開催となった「中外製薬2017車椅子ソフトボール大会in東京」。その会場で、一人の「元野球部員」に出会った。TOKYO LEGEND FELLOWSの外野手・小貫怜央(おぬき・れお)、慶應義塾大学1年生だ。彼は、車椅子ソフトボールの存在を知った時、こう思ったという。
「まるで、自分のためにあるのではないか……」
ボールを追いかけ、バットを振り、ダイヤモンドを駆け抜ける――そんな日が、再び訪れるとは、1年前までの小貫には想像すらできなかった。

TOKYO LEGEND FELLOWSの外野手・小貫怜央
突然、病魔に奪われた「野球の日々」
「宣誓! 我々一同は全力で戦い、勝つことのみにこだわらず、選手、運営に携わっている方々、見に来てくださっている方々、この会場にいる全ての人たちが車椅子ソフトボールを楽しめるように、そしてこの大会が終わった後も、車椅子ソフトボールが発展するうえで、一致団結した大きな力となり、この世界を動かしていくことを誓います!」
7日、小雨がやみ、見え始めた青空に向かって、小貫は声高らかに選手宣誓をした。日焼けをした顔は、まるで「野球少年」そのもので、これから始まる「戦い」に胸を躍らせているように感じられた――。

試合前に円陣を組む日本代表チーム。小貫(右から4番目)が、威勢の良い声でチームを鼓舞した
小貫が野球を始めたのは、小学1年生の時。野球好きの父親からの勧めで、地元のチームに入ったのがきっかけだった。中学校入学後も軟式野球部に所属し、当然のように高校でも野球を続けるつもりだった。しかし、そんな小貫に突然、病魔が襲ったのは中学3年の時だった。骨のがんといわれる骨肉腫だ。
病気が発覚し、人工関節の手術をすることが告げられた時、真っ先に小貫の頭をよぎったのは、「野球」のことだった。
「骨肉腫と聞いた時、正直に言って、中学生の僕にはあまり実感がわきませんでした。これからどうなるのか、全然想像がつかなかったんです。ただ、ひとつはっきりとわかったのは、野球ができないということでした。僕はもともと甲子園を目指すとか、そんなことは考えていませんでした。ただ、野球が大好きで、やめたいと思ったことは一度もなかった。これからもずっと野球を楽しみたいと思っていました。だから何よりもまずショックだったのは、これまでのように走れない、野球ができないということだったんです」
プレーはできなくても、なんとかして野球に携わっていたかった。そこで、高校では軟式野球部のマネージャーとして入部し、3年間、選手たちを支えた。白球を追うチームメイトを羨ましく感じたことは、一度や二度ではないはずだ。それでも小貫は、野球から離れた生活は考えられなかった。彼にとって、それほど野球は不可欠な存在だったのだ。
車椅子ソフトとの偶然の出合い
そんなある日のこと。偶然ツイッターで見つけた記事に、小貫の視線は釘づけとなった。昨年9月、埼玉西武ライオンズの主催で行われた車椅子ソフトボールの大会「ライオンズカップ」の記事だった。
「ちょうどその時、僕は高校3年で、夏の大会が終わって野球部を引退していたんです。だから、次にどうしよかなと考えていた時に、車椅子ソフトというものがあると知って、すぐにTOKYO LEGEND FELLOWSの練習会に参加しました」
実際にやってみると、「打つ」「投げる」「捕る」ことはできたが、車椅子の操作には苦戦を強いられた。
「(車椅子で)打球を追ったり、走塁という部分では、まったくダメでした。だから、最初はとにかく車椅子を漕ぐ練習をしました」
しかし、小貫にとってそれは、何の苦しみも辛さもなかった。とにかくプレーできることがうれしかった。
「中学3年の時に病気を患って、それから高校3年間は一度も自分がプレーするということはありませんでした。なので、また自分がボールを追いかけられるなんて、楽しさしかなかったです。まるで自分のためにつくられたスポーツのように感じました」
競技発展に貢献できる存在へ
今大会では初めて「JAPAN」のユニフォームを着て、日本代表の一員として米国代表と対戦した。4番に抜擢された小貫だったが、結果は三振、ショートフライと、2打数無安打。チームも、わずか1安打に抑えられ、0-13と完敗を喫した。
小貫には、スコアほど実力に差があったようには思えなかった。
「特別に緊張していたわけでも、気負っていたわけでもなかったのですが、なにかいつもとは違いました。初回に日本の好打者3人がいとも簡単に打ち取られているのを見て、『これが米国代表か』と思ってしまったのが、大きく影響してしまったのかもしれません。無意識に、精神的な部分で押されていたのかなと」
翌日、小貫は所属するクラブチーム「TOKYO LEGEND FELLOWS」の一員として、再び米国と対戦した。今度は、「いつも通り」を心がけた。すると、右中間へのライナーを飛ばし、本来の実力を披露した。

「TOKYO LEGEND FELLOWS」として出場した二日目。小貫は、米国代表から右中間へライナーを飛ばした
しかし、小貫の中では「代表戦の借りは代表戦で返したい」という気持ちがある。だからこそ、2012年から日本代表が参戦している、毎年8月に米国で行われる「ワールドシリーズ」に、来年は出場したいと考えている。
「代表に選ばれたからには、今回の負けた試合で終わるのではなく、もっと貢献できる選手にならなければいけないと思っています。この競技を発展させるためにも、やっぱり代表が弱いのでは話にならないと思うんです。だから、自分自身、もっと強くなって、米国を倒しに行きたいと思っています」
現在は2020年東京パラリンピックに向けて、全国で選手発掘事業が行われ、パラスポーツに転向する若手も少なくない。一方で車椅子ソフトは現在パラリンピックには採用されていない。それでも、小貫には離れる気持ちは一切ない。
「僕はずっと野球しかやってこなかったので、特にパラリンピックということを考えたことはないんです。それに今は、すでにパラリンピックで行われている競技ではなく、まだ発展途上である車椅子ソフトを世界的なスポーツにしていけるように、自分がその力になりたいと思っています。ずっと野球に携わってきたので、やっぱり野球とかソフトボールに貢献したいんです」
「今、とても充実している」という小貫の表情は、「野球少年」そのものだった。彼にはやはり、青空の下、野球帽をかぶり、ダイヤモンドを駆け回る姿が似合う。

「野球少年」のような笑顔を見せる小貫。彼の「車椅子ソフト人生」は、まだ始まったばかりだ―
(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)