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October 27 2017 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

「車椅子ソフトボール」に魅せられて ~竹内圭~

アメリカでは半世紀前から全国大会が行われるなど、人気の障がい者スポーツとして盛んに行われてきた「車椅子ソフトボール」。日本で普及活動が本格指導したのは、2013年のことだ。日本では、障がいの有無に関係なく、「誰でも参加することのできるスポーツ」として独自の道を歩んでいる。その車椅子ソフトに誰よりも魅了されているのが、竹内圭(たけうち・けい)だ。もともとは水泳や陸上という全く異なるタイプの競技を志し、しかも健常者である竹内が、なぜ「車椅子ソフト」に魅せられ続けているのか。その理由を竹内に聞いた。

「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」、竹内圭

「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」として知られる、竹内圭(右)

「勝ちたい」思いが生んだ情熱

竹内は障がい者アスリートの雇用を支援する企業「つなひろワールド」の代表取締役を務めている。その竹内が「車椅子ソフトボール」の存在を知ったのは、2012年のこと。つなひろワールドの登録者であり、現在チームメイトで、日本代表チームの監督および主将を務める石井康二(いしい・こうじ)からの誘いがきっかけだった。

「石井さんから『竹内さん、車椅子ソフトっていうスポーツがあって、健常者も一緒にやれるんです。やってみませんか?』と言われたのが最初でした。実は僕、自分も車いす競技をやってみたいなと思っていたんです。ウィルチェアーラグビーや車いすバスケの体験会で競技用車いすに乗ると、楽しくて仕方なかった。だから自分もプレーヤーとしてやりたいなと思っていました。そうしたところに、車椅子ソフトの話が舞い込んできて、『健常者でもできるスポーツなら、もってこいだな』と」

すぐに設立されたばかりのチーム「TOKYO LEGEND FELLOWS」の練習会に参加した竹内は、その場で入団を決めた。

筑波大学体育専門学群出身の竹内だが、陸上競技の長距離を専門としてきた彼にとって、用具を使う球技はどちらかというと苦手な部類に入る。そのため、球技に加えて車いす操作を要する車椅子ソフトは、竹内にとっては難しさを極めた。

「まず、車いすに乗って『漕ぐ』『捕る』『投げる』『打つ』すべてのことが、全くできませんでした(笑)」

「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」、竹内圭

トライアスロンにも挑戦した経験を持つ竹内はたくましい体つきだ。今でこそ生き生きとプレーをするが、最初は、車いす上で何もできなかった

そんな中で初めて出場したのが、翌2013年に第1回大会として開催された「日本車椅子ソフトボール選手権大会」だった。当時、国内で車椅子ソフトのチームは、北海道と東京の2地域のみで、それぞれAとBの2チームずつが参加し、計4チームで行われた。

竹内が入った東京Bチームの結果は、0勝3敗。日本では「発祥の地」である北海道のAチームには、アウト1つ取ることさえも難しく、20点差と全く歯が立たなかった。

「3アウトにたどり着くのに、炎天下の中30分も守備についたりして、とにかくもうボロボロでした」

2014年は、ある程度の練習を積んで臨んだ2回目の日本選手権だったが、東京Bチームは勝つことができなかった。その時、竹内はチームメイトとこんな言葉を交わしたことを今でも鮮明に覚えている。

「勝ちたいね……」

「うん、勝ちたい……」

大会後、チーム練習のほかに、自主練習を始めた。チームメイト数人と集まって、できる限りの時間を費やし、基本練習を繰り返した。

そして迎えた3年目、ついに東京Bチームは悲願の「1勝」を手にした。しかもそれは、僅差での接戦の末に掴んだ勝利だった。

「あの時の1勝は、いまだに忘れることができません」と竹内。遠かった分、初勝利の味は何にも増して格別だった。

「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」、竹内圭

初勝利の味は、今も忘れないと話す竹内。今の最大の目標は、「優勝」だ

その年、東京Aチームは初優勝を飾り、日本一となった。「TOKYO LEGEND FELLOWS」としては、「優勝1回」という記録が残されている。しかし、当時Bチームだった竹内にとっては、優勝した経験は「ゼロ」。だからこそ、今抱いている最大の目標は「優勝」だ。

「チームになれる」喜び、「成長」できる要素が詰まったスポーツ

今では「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」として関係者の中では有名な竹内。果たして、車椅子ソフトの魅力とは何なのか。

「ひとつは、ほかの車いす競技よりも、入り口のハードルが低いということです。車いすバスケや車いすテニスでは、瞬時にいくつかの動作を同時にしなければいけないので、結構難しいんです。でも、車椅子ソフトは、ある程度車いす操作ができるようになれば、『打つ』『走る(漕ぐ)』『捕る』『投げる』と、一つ一つの動作を順番にやっていけばいいので、練習さえすればできるようになるし、誰にでも活躍できるチャンスがあります」

さらに、竹内はもう1つの魅力をあげた。

「やっぱり障がいの有無に関係なく、みんなでチームになって本気で勝利を目指しているところですよね。全く同じ目線でやれるのって、究極のノーマライゼーションだと思うんです。今考えると、アメリカから輸入した際、日本では健常者も含めたスポーツにしようとしたことって、非常に大きかったと思うんです。だからこそ、わずか5年で、ここまで広がっているのだと思います」

車椅子ソフトボール

障がいの有無に関係なく、チーム一丸となって勝負に臨めるのが最大の魅力だという竹内(中央)

竹内の「車椅子ソフト熱」は、現在も上昇中だ。そんな竹内たちの「車椅子ソフト熱」は、チームメイトに「変化」をもたらしている。チーム最年少の佐々木椋汰(ささき・りょうた)は、4年前、初めて練習会場に現れた時はまだ中学生で、父親に連れられて電動車いすに乗っていた。当時は、すべてを父親の介助に頼っていたという。

しかし、実際に一緒に練習をしてみると、予想以上に動くことができた。それを見ていたチームメイトから「椋汰、オマエ電動じゃなくて、日常車(日常用車いす)でも自分で漕げるんじゃない?」という声があがったという。それをきっかけに、佐々木は電動車いすから日常車に乗り換え、自分でやれることはやるようになった。そして今では、立派な日本代表の捕手として活躍している。

「椋汰のように、若い子が選手としてだけでなく、人として成長する姿をチームメイトとして見ることができるのも、車椅子ソフトをやる楽しみの1つでもあるんです」

東京初開催で広がる交流の輪

日本における車椅子ソフトの普及活動が本格始動してから、5年。第1回大会は北海道と東京の2チームだった日本選手権の出場数は、今年は11チームにまで増えた。しかも、その範囲は北海道から九州までの全国に及ぶ。

2014年からは北九州市立大のゼミ生が中心となって運営する「北九州車椅子ソフトボール大会」、2015年からはプロ野球の埼玉西武ライオンズが主催する「ライオンズカップ」がスタートし、そして今年9月、ついに東京では初開催となる「中外製薬2017車椅子ソフトボール大会in東京」が行われた。今回、竹内はその実行委員長を務めた。

78日の2日間にわたって、東京臨海広域防災公園に設置された特設会場で行われた同大会には、全国から10チームが参加。さらに、はるばる本場アメリカから選抜チームが来日し、日本代表チームや各クラブチームと対戦した。

竹内をはじめ、運営スタッフが全員、選手を兼任していたこともあって、当日の舞台裏はまさに「ドタバタ」だったと話す。「皆さんには、ご迷惑をおかけして申し訳なかった」と反省しきりだ。

運営における課題はまだ山積みだという。例えば、ボランティアの問題。今回は平日に研修を行ったため、参加することができなかった人たちは、「ぶっつけ本番」でやるしかなく、そんな中で数十人を取り仕切るのは非常に難しかったという。

しかし、それでも「開催してよかった。意義ある大会になったと思います」と竹内は語る。会場は、まさに「ノーマライゼーション社会」そのもので、笑顔があふれていた。全国から、そしてアメリカから集まったチーム同士の交流によって、車椅子ソフトの輪が広がっていく様子は、何物にも代え難いと感じた。

「来年も、絶対に開催できるように頑張ります」と竹内。念願だった「東京開催」の火を灯し続けるつもりだ。

「車椅子ソフトに日本一熱いプレーヤー」、竹内圭

障がいのある人もそうでない人も、お互いが特別に区別されることなく社会生活を共にする「ノーマライゼーション社会」が自然な形で実現している車椅子ソフトに、これからも竹内は情熱を注ぐ

(文/斎藤寿子、写真/越智貴雄)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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