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January 04 2018 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

「異次元だったパラ」。世界から受けた衝撃の数々 ~及川晋平×マセソン美季~(前編)

2020東京パラリンピックに向けて、今、競技やアスリートへの環境は急速に変化し、国内のパラリンピックへの認知度はより高まりを見せている。しかし、そんな今だからこそ、あえて「過去」を振り返りたい。先人たちがどのような「軌跡」をたどり、「今」があるのか。それを知ることで、2020年、またその後の未来に向けて、力強く進んでいく――そんなコンセプトの下に開かれた「The BORDERLESS」新春特別対談第3弾。そのゲストとして迎えたのが、車いすバスケットボール男子日本代表ヘッドコーチ(HC)の及川晋平(おいかわ・しんぺい)氏と、IPC(国際パラリンピック委員会)が推奨するパラリンピック教育「I’mPOSSIBLE日本版」の開発リーダーを務めるマセソン美季(ませそん・みき)氏。ともに現役時代はパラリンピックを経験し、さらに海外留学の道を歩んだという点も共通している二人。現在は異なる立場から、2020東京パラリンピックに向けて重要な役割を担っている。パラリンピックスポーツが認知されていなかった時代の競技環境、パラリンピックでの経験、海外留学で得たことなど、貴重な過去の体験談を聞いた。

及川晋平氏(左)とマセソン美季氏

車いすバスケットボール男子日本代表ヘッドコーチの及川晋平氏(左)と、IPCが推奨するパラリンピック教育「I’mPOSSIBLE」の開発リーダーを務めるマセソン美季氏。実は二人には、共通点が多い

意識するきっかけとなった1996年アトランタ大会

―― パラリンピックに出場したのは、マセソンさんが1998年冬季長野大会、及川さんが2000年夏季シドニー大会でした。お二人は、いつ、どのような形で「パラリンピック」と出合ったのでしょうか?

及川: 僕が初めてパラリンピックというものに触れたのは、1996年のアトランタ大会でした。闘病生活を終えて車いすバスケに出合ってから2年後に、僕はアメリカの大学に留学していて、海外生活も2年目に入っていたと思います。ちょうどその時にアトランタでパラリンピックが開催されるということで、自ら希望をして車いすバスケットボール男子日本代表チームの通訳ボランティアとして大会に参加したんです。英語を使って何かをやりたかったのと、自分がやっている車いすバスケにとって「世界最高峰の大会」がアメリカで行われるということで、その場を経験してみたいと思ったんです。

―― 当時の及川さんにとって、「パラリンピック」は、どういう存在として映っていたのでしょうか?

及川: 当時の僕にとっては「異次元」という感じだったかなぁ。パラリンピックについて、何もわからなかったですからね。そもそも自分が日本代表に入って国際大会に出場するなんてことは、イメージできていなかった。ただ、車いすバスケが楽しくて、うまくなりたくて……そんな中で単身渡米して、「もしかしたら、いつかは」くらいのものでした。

―― 実際に及川さんの目で見た「パラリンピック」とは、どういうものでしたか?

及川: 当時は、オリンピックとパラリンピックがはっきりと分かれて開催されていました。確か、選手村も競技会場も、オリンピックとは違っていて、「あれ?」と思った記憶があります。ただ、そこで初めて触れた世界トップレベルの車いすバスケは、想像をはるかに超えるもので、「こんなにも競技レベルが高いのか」と衝撃を受けました。リハビリの延長という車いすバスケではない選択肢があって、自分が病気になる前にずっと情熱を燃やしていたバスケと変わらない熱いものを感じたんですよね。それで「あ、オレが目指すべきところはここだ」と、自分の進むべき方向が垣間見えた気がしました。それが、僕が初めて触れたパラリンピックでした。

―― マセソンさんがパラリンピックを意識するようになったきっかけは、何だったのでしょうか?

マセソン: 私は大学1年生の時に交通事故に遭ったのですが、入院していた時にちょうど開催されていたのが1994年冬季パラリンピックのリレハンメル大会(ノルウェー)でした。もちろん、私は海の向こうでそんな大会が開催されているなんてことは知らなかったのですが、担当医の先生が新聞の切り抜きを見せてくれたんです。そこに載っていたのが、日本人の女子パラアスリートの第一人者、土田和歌子(つちだ・わかこ)選手でした。聞けば、わこちゃんは同じ病院で、私と同じ担当の先生に診てもらっていたというので、「へぇ、世界にはこんな大会があって、私と同じような年齢の選手が出ているんだ」と驚きました。ただ、「パラリンピック」がどういうものかということは、正直わかりませんでした。

初めて「パラリンピックってすごい舞台なんだ」と思ったのは、私も晋平さんと同じ1996年アトランタ大会でした。その頃には退院をして、自分でも車いす陸上を始めていたのですが、同じ場所で練習をしていた畝康弘(うね・やすひろ)さんが、アトランタに出場をして世界新記録での金メダルを持って帰ってきたんです。身近にいる畝さんの輝いている姿を見て、「うわ、すごい世界なんだな。自分もいつか出てみたい」と思ったのが、パラリンピックを目指すようになったきっかけでした。

競技のおかげで生まれた「自己肯定感」

―― 当時、パラリンピックを目指して競技をする選手がおかれた練習環境とは、どのようなものだったのでしょうか?

及川: 僕が一番に苦しかったのは「どうすればうまくなれるのか、強くなれるのか」、その明確な方法がわからなかったこと。今振り返ると、ただ自分が思ったことをやるだけでしたね。トレーニングだけは一生懸命するから、体は大きくはなるけれど、それをどうバスケに生かすのかがわからなかったり……。「頑張る力」と「覚悟」はあるけれど、その努力の行く先が、きちんと競技レベルが向上する方向にはなかったということが、一番苦しかった。それでも結果は出さなくてはいけないというプレッシャーだけは降りかかってくるので、もう「祈り」と「気合い」で突き進むしかなかったんです。その結果、すぐに5ファウルで退場(笑)。そういうプレーヤーにしかなれなかったですね。

マセソン: 晋平さんが「祈り」と「気合い」なら、私は「運」と「気合い」でしたね(笑)。晋平さんが言う「努力の行く先がわからなかった」というのは、私も同じでした。私は1998年長野パラリンピックの開催が決定した後、体験会がきっかけで、陸上からアイススレッジスピードレース(「スレッジ」と呼ばれるそりに乗り、ストックを使用して氷上を滑ってタイムを競う)という競技に転向しました。そのアイススレッジが日本国内で行われるようになったのは、1994年リレハンメル大会がきっかけで、そのリレハンメルにも男女一人ずつしか出場していなかった。ですから、当然世界レベルの選手は国内には皆無でしたし、専門の指導者もいない状況の中、何をどうすれば速くなれるのか、その方法論はゼロに等しかったんです。そんな中、トレーナーと「ここをどうしよう、ああしよう」という先の見えないやりとりをしながら、まさに手探り状態で進むしかなかった。ですから、本番ではもう「運」と「気合い」で突き進んでいきました。

―― そうした苦しい状況の中でも、お二人は目標としていた「パラリンピック」という舞台に到達されました。その要因は何だったと思われますか?

及川: 一番に言えるのは「努力」ですね。とにかく努力することだけは本当にしました。それが、パラリンピックという舞台に行くことができた要因だったと思います。でも、それは誇れるものでも何でもない。とにかく見よう見まねで、がむしゃらにやるしか方法がなかった。そんな「乏しさ」の中でやるしかなかっただけなんです。だから、指導者である今、そんな過去の経験を「反面教師」としています。もちろん努力することは必要ですが、それだけでは世界には勝つことはできないんです。

バスケットボール男子日本代表を指導する及川HC

自身の経験を反面教師に、現在の車いすバスケットボール男子日本代表を指導しているという及川HC(三菱電機WORLD CHALLENGE CUP2017)

マセソン: 私は、長野パラリンピックの大会前は、メダルを期待されるような選手ではありませんでした。ただ、練習だけは誰にも負けないくらいやっているという自負があったので、「私を代表に選ばないと損ですよ」というふうには思っていました。それこそ、実績もまだない新人がいきなり大きなことを言って、周囲はどう思っていたんでしょうね(笑)。実力でというよりも、努力と威勢の良さを買われて、代表に選んでもらったようなものだったんです。その結果、長野パラリンピックでは「運」と「気合い」、そして「練習量」で、メダル(金3、銀1)を取れたということだったと思います。

―― 実際に出場してみて、パラリンピックはどんなものでしたか?

マセソン: ひと言でいえば、やっぱりすごい大会だなと。あんなにも大勢の前で競技するなんて経験はそれまで全くなかったですし、私があれほど緊張したことはそれまで一度もありませんでした。それと、「あぁ、人に応援してもらって力が出るというのは、こういうことなんだ」ということも初めて知りました。私自身、ずっとスポーツをしてきていましたが、正直スポーツ選手がよく言う「応援が力になりました」という言葉を信じていなかったんです。「そんな他人の声援が力になるなんてことはあり得ない」と思ったりして(笑)。でも、長野パラリンピックで初めて「あぁ、こういうことなんだ」と、身をもって知ることができました。

―― 「世界の頂点」に到達した景色はどんなものでしたでしょうか?

マセソン: 「世界一」でいられる時間って、ほんの一瞬なんです。メダルセレモニーでセンターポールに揚がっていく国旗を見ながら国歌を聴いている時間というのは、「あぁ、世界一になれたんだなぁ」と実感することができました。でも、セレモニーが終わって、控え室に戻ったら、それほど長く余韻に浸るということはありませんでした。ですから、本当に一瞬の輝きでしかないんです。でも、その一瞬のために絶え間ない努力をするだけの価値は十分にあると感じました。金メダルを取れたのは、決して私一人の力ではありません。周りで支えてくださった方々がたくさんいたからこそ。長野で一つ目の金メダルを取った時には「これでパラリンピックに出た証しができた」と思ったのですが、二つ目の金メダルを取った時には「これで、やっと支えてくれた人たちにお礼ができる」と思ったんです。もちろん、それまでもありがたさを感じてはいましたが、表彰式で金メダルを首にかけてもらった時、どっと感謝の気持ちが湧いてきたんです。どちらかというと自己中心的だった自分が、周囲を見ることができるようになったという点で、メダルをもらったおかげで少しは成長できたのかなと思っています。

マセソン美季氏

世界一は、「一瞬の輝きでしかない」と語るマセソン氏。しかし、その「一瞬」のために努力する価値があると語る

―― 及川さんには、パラリンピックはどう映ったのでしょうか?

及川: 当時、何と一番に闘っていたのかというと、やはり自分自身だったと思います。高校1年の時に右足に骨肉腫が見つかって人工関節置換手術をしましたが、その後、ガンが肺にまで転移していることがわかり、右足を切断し、ローテーション(足首の関節を膝の関節に代用する)手術を行いました。さらに、その後も2度、肺に転移が見つかって、闘病生活は約5年にもわたったんです。そんな中、「どうしていけば、僕の新しい人生を切り開いていけるんだろう」と思っていました。障がいを負って社会に出ていくことへの戸惑いやもどかしさ、いろいろな葛藤があったんです。車いすバスケは、そんな僕にとって頼れる存在でした。車いすバスケで努力をして鍛え上げれば、どうにかなるかもしれないと。ただ、その間も、またいつガンが再発するかもしれないという恐怖心を抱えていました。そういう中でつかんだのが、パラリンピックという舞台だったわけですが、一番強く印象に残っているのは、開会式です。「JAPAN」というアナウンスの後に会場に入ったとたんに、何万人もの人たちの大歓声を浴びた瞬間、「あぁ、オレはこれでいいんだ。十分に立派じゃないか」と思えたんです。それまで障がいを抱えて生きていく自分に対して「足があったら、こんなことも、あんなこともできたはずなのに……」と、「悔しい」とか「残念」とか「周りに対して申し訳ない」というような卑下することしかできなかった。でも、「障がいがあって何が悪い。迷うことなんか何もない」と、初めて自分自身を肯定することができたんです。

―― マセソンさんも、競技をしている間、何かを忘れて没頭できたという感覚はあったのでしょうか?

マセソン: はい、ありました。競技をしている時って、自分の足が動かないことではなく、「もっと速くなりたい」「もっと強くなりたい」ということしか考えないんですね。車いすユーザーになる前、スポーツに熱中していた頃と全く同じ感覚だったんです。そのことに気が付いた時に、「あぁ、私の中に育まれたアスリートとしてのアイデンティティーは、障がいがあろうがなかろうが関係なく生き続けているものなんだな」と気付けたんです。「やっぱり私は、私のままなんだな」と。

「違い」を求めて行ったアメリカ留学

―― お二人ともに、海外留学を経験されています。現在でも障がいのあるアスリートで海外に留学する日本人はまれですが、当時はそれこそ考えも及ばなかったと思います。その時代に、海外留学をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

及川: 僕が海外に留学したのは、22歳の時。車いすバスケを始めて1年がたった頃でした。当時の僕は、さきほども言った通り、「足があったら、本来はこうあるべきなのに」と仮の自分づくりの中にいたわけです。その中で、車いすバスケに没頭しながら将来のことを考えた時に、「普通に日本の大学に行くのは違うな」と思ったんです。闘病生活が長期間に及んだだめに、「高校を卒業して、大学に進学する」という普通のレールから外れたのに、またそのレールに戻るというのは、何か自分が望んでいるところとは違うなと思ったんです。「じゃあ、どうするのか」と考えた時に、唯一ずっと続けていたのが英会話の勉強でした。「何か英語を使ったことをしたいな」と、うっすらとですが、そういう気持ちがあったんですね。それともう一つは、コンプレックスに縛られている、あまりにも情けない自分の考え方が、嫌で嫌で仕方なかったんです。なのに、周囲からはどんどん大事にされて……。そういう中で、「障がいに対して、今の自分や周囲とは違う考え方ってないのかな?」と思っていました。それで、「海外で英語を使って、今とは違う、自分自身を肯定できるような考え方を見つけたい」と思ったんです。それで、アメリカに留学することに決めました。

及川晋平氏

「本来こうあるべきなのに」と思う自分からの脱却。そのために単身、アメリカに渡った及川氏。「たぶん」という、いちるの望みにかけた

―― 留学先は、なぜアメリカだったのでしょうか?

及川: 理由はただ一つ、車いすバスケでした。「一番強いのは、たぶんアメリカだろう」という推測のもと、アメリカに行こうと。「たぶん」というのは、当時はインターネットもなかった時代で、世界の障がい者スポーツの情報を日本で手に入れることはほとんど無理でした。だから、「ほかのスポーツと一緒で、おそらくアメリカは強いだろう」という推測でしか決めることができなかったんですよ(笑)。留学先の情報は、当時僕が通っていた英会話教室の「留学センター」からもらったリストをもとにしました。センターには「車いすバスケもやりたい」という要望を伝えてはいましたけど、インターネットがない時代に、そんな細かいリサーチなんかとても無理ですよね。その中で日本人がたくさん住んでいるから、「もしかしたら、いちるの望みがあるかも」ということで挙がったのがワシントン州シアトルだったんです。ですから、最初は車いすバスケをやれるかどうかなんてわからなかったので、車いすを持って行かずに渡米しました。

―― どのようにして、車いすバスケができる環境にたどりついたのでしょうか?

及川: ホストファミリーのおじさんと一緒にイエローページで探していて、3カ月くらいたった頃に、ようやくチームが見つかったんです。それで電話をしたら「ぜひ、来てくれ!」と。それが最初のチーム「シアトルスーパーソニックス」でした。

―― マセソンさんは、どんなきっかけで留学をしようと思ったのでしょうか?

マセソン: 私の場合は二つきっかけがあって、一つは現役時代に遠征でアメリカに行った時のこと。それまで私たちスレッジの選手は、日本では傷だらけのリンクを見ながら製氷係の人たちに申し訳ないという気持ちを抱きながら練習場を後にしていました。だからアメリカのミルウォーキーに行って練習をした時にも、製氷係の人に「すみません、私たちの競技はリンクをすごく傷つけてしまうんです」と謝ったんですね。そしたら、おじさんがこう言ったんです。「君たちは謝るために、わざわざ高いお金をかけて日本から来たのかい?リンクのことを考えるのは僕たちの仕事なんだ。君たちは日本代表としてどうすれば速くなれるかだけを考えればいい。そんな心配をするくらいなら、日本に帰った方がいいんじゃないか?」と。それを聞いて、「あぁ、私たちの競技に対して、こういうふうに考える人がいるのがアメリカなんだ」と衝撃を受けました。

もう一つは、スレッジと並行で陸上競技もやっていた時に、ピーチツリー・シティのレースに出場したんです。当時、私は20代前半だったのですが、日本では「若手の新人」と呼ばれていました。ところが、ピーチツリーで目にしたのは、7、8、9歳くらいのジュニアの子たちだったんです。車いす競技をしている子どもたちを見たのは初めてで、驚いたのと同時に、「じゃあ、日本ではいったいジュニアの子たちはどこにいるんだろう?」という疑問が湧いてきました。当時、私の周りには全くと言っていいほどジュニアの子たちがいなかったんです。その背景には指導者がいないからだと思いました。それで、「だったら、私が指導者になろうかな」と。それがきっかけで「よし、指導者になるための勉強をしにアメリカへ行こう」と思ったわけです。

―― 留学をするにあたって、及川さんに相談されたそうですね。

マセソン: はい、そうなんです。いざ留学をしようと思っても、晋平さんと同じで、インターネットがあまり普及していなかったので、どうすればいいのかわかりませんでした。それで、ことあるごとに「アメリカに行きたい」という話をしていたところ、元車いすバスケ日本代表で、当時はスレッジの日本代表として活躍していた奥原明男(おくはら・あきお)さんが「アメリカに留学したいなら、晋平に聞いたらいいよ」と言って、その場で電話をかけて紹介してくれたんです。当時、晋平さんのことは全く知らなくて、本当に「初めまして」という感じ。晋平さんにとっても、あまりにも突然のことで驚いたとは思うのですが(笑)。そこでアメリカに行きたいことを伝えて、その後も何度かアドバイスをいただく中で、「素晴らしい指導者がいるから」と薦めていただいたのがイリノイ州立大学でした。ただ、調べてみると、イリノイ大はそう簡単に入れないし、それに留学するには結構費用がかかることわかったんですね。でも、両親にこれ以上お金を出してほしい、なんてことは言えませんでした。それで大学の学生課に行って相談したところ、学務課の方が真剣にいろいろと探してくださって、公益財団法人ダスキン愛の輪基金「障がい者リーダー育成海外研修派遣事業」を紹介してくださったんです。それに応募をして、とにかく勉強して、運よく合格したことで留学の道を切り開くことができました。

「修業」から「楽しさ」に変わったトレーニング

―― 実際にアメリカに留学をして、日本との違いをどう感じたのでしょうか?

マセソン: 学生の中には電動車いすに乗っている人もいたのですが、その人が夜になると一人でバーに行って飲んでいるのを見た時に、ものすごい衝撃を受けました。当時、街中で電動車いすに乗った人を見ることさえもないかった日本では、そんな光景はとても考えられないなと。でも、その人を見た時に、「あぁ、これが日米の違いなんだな」と思いました。例えば、車いすに乗った人が旅行に出かけようとした際、日本ではまず「どこなら車いすで行けるかな」ということを考えます。でも、アメリカでは「自分はどこに行きたいか」が大事で、その気持ちに素直に従って行動に移すんです。私自身のことを考えても、車いすの生活になった途端に行けると思える場所にしか行こうとしなくなっていたなと気づきました。いつの間にか、物事を消去法で決めるようになっていて、自ら選択肢をなくしていたんです。そういうふうに我慢することが当たり前になってしまって、自分の気持ちを押し殺してしまっていることにさえも気づいていませんでした。でも、アメリカに行って、「あ、自分の意思に素直に従って、やりたいことをやっていいんだな」と思えたんです。そんな居心地の良さを、車いすになってから初めて感じることができました。

及川: 僕も同じだったな。「何でもできる」と言うと、ちょっと大げさかもしれないけれど、アメリカではまず「自分がどうしたいか」を考えて行動できたんです。周りには「やりたいなら、サポートするよ」と言ってくれる人が必ずいました。でも、日本では何かしたいことがあっても「それは無理」とか「それは危ないから」と言われてしまって諦める、ということが少なくなかった。アメリカに留学をして、何より衝撃的だったのは、ロサンゼルスの病院を見学に訪れた時。喉から人工呼吸器を入れている人が体育館でスポーツをしていたんです。それを見た時に、僕は思わず「危ないんじゃない?何か事故でも起こったら誰が責任を取るの?」と聞いたんです。良くも悪くも、まさに日本人の発想ですよね。そしたら、病院のスタッフはこう言ったんです。「それは、本人が決めること。彼がやりたいと思っていることを実現させて生きていくことと、実現できずに生きていくのとでは、大きく違う。彼がやりたいと思って決めたことなら、できる限りのリスク回避するために、どのようにサポートをするべきかを考えるのが我々の仕事なんです」と。その言葉を聞いた時に、「あぁ、これなんだ」と思いましたよね。日本とアメリカと、どちらが良い悪いではないけれど、違う考え方が存在することは確かで、しかも全くと言っていいほど違うわけですから、衝撃の大きさはすごかった。思わず自分のことを振り返りましたよね。「これまでの自分はやりたいことをやってきたんだろうか。いや、やりたいことが何なのかさえ考えてこなかったんじゃないか……」って。

(後編につづく)

(文:斎藤寿子/写真:越智貴雄)


 

<及川晋平(おいかわ・しんぺい)>

1971年4月20日、千葉県生まれ。PwCあらた有限責任監査法人所属。バスケットボールに熱中していた高校1年の時に骨肉腫を患い、右足を切断。5年の闘病生活を経た後、車いすバスケットボールと出合う。93年に千葉ホークスに加入。22歳の時にアメリカへ留学し、シアトルスーパーソニックス、フレズノレッドローラーズでプレー。イリノイ州立大学の練習にも参加し、名将マイク・フログリーの指導を受ける。2000年シドニーパラリンピックに日本代表として出場。翌01年、後にNPO法人化した「Jキャンプ」を設立し、現役でプレーする傍ら、車いすバスケの普及活動にも注力する。02年、車いすバスケのクラブチーム「NO EXCUSE」を立ち上げ、自ら指導を行う。12年ロンドンパラリンピック車いすバスケ男子日本代表アシスタントコーチを務め、13年にはヘッドコーチに就任。現在は、東京パラリンピックでのメダル獲得を目指し、チーム強化を図っている。

<マセソン美季(ませそん・みき)>

1973年7月17日、東京都生まれ。旧姓・松江美季。東京学芸大学1年の時に交通事故で脊髄を損傷し、車いす生活に。4年時に出場した1998年長野パラリンピックでは、アイススレッジスピードレースで金3、銀1の計4個のメダルを獲得した。大学卒業後、アメリカのイリノイ州立大学に留学。卒業後は当時アイススレッジホッケー(現パラアイスホッケー)カナダ代表選手と結婚し、カナダへ移住。現在も首都オタワで暮らしている。2016年からは、カナダと日本を行き来しながら日本財団パラリンピックサポートセンターで推進戦略部プロジェクトマネージャーとして世界中を飛び回っている。パラリンピック教育では「I’mPOSSIBLE日本版」の教材開発のリーダーを務めている。

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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