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January 05 2018 By 斎藤寿子(さいとう ひさこ)

すべては後悔することなく2020年を迎えるために ~及川晋平×マセソン美季~(後編)

アメリカ留学を経験し、「障がい者」「障がい者スポーツ」に対する日米の違いを感じたという及川晋平氏とマセソン美季氏。そんな二人は、5年前の2013年9月8日、2020東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した瞬間、それぞれ「ある決意」をしていた。現在、及川氏は車いすバスケ男子日本代表HC、マセソン氏はパラ教育「I’mPOSSIBLE日本版」の開発リーダーという大役を務めている。そんな二人の目に、2年半後に控える東京パラリンピックに向けて、激動の時代を迎えている現在の日本は、どう映っているのか。そして、それぞれが抱えるミッションへの手応えとは――。今の思いを聞いた。

車いすバスケットボール男子日本代表ヘッドコーチの及川晋平氏(左)とマセソン美季氏

車いすバスケットボール男子日本代表ヘッドコーチの及川晋平氏(左)と、IPCが推奨するパラリンピック教育「I’mPOSSIBLE日本版」の開発リーダーを務めるマセソン美季氏。二人は「同志」でもある

―― 障がい者スポーツという点での日米の違いは、どんなところに感じられたのでしょうか?

及川: 一番は「指導」という点でした。当時イリノイ大のコーチは、車いすバスケ界の名将マイク・フログリー(現カナダナショナルアカデミーコーチ)で、彼の指導はきちんとした「コーチング」というものでした。一方、留学する前の日本での指導はというと、「先輩を見て、学んで、追い越せ」というもので、努力はするけれど、果たして何をもって先輩を追い越したかなのかわからなかったし、それこそ間違ったやり方をしている先輩を見て学んでいたら大変なことになる……というような状況で、指導というには程遠いものだったんです。

マセソン: 本当にそうでしたね(笑)。結局、日本にはどの競技にも専門家がいなかったんです。だから、選手も見よう見まねでやるけれども、何のためにやっているのか誰も教えてくれない。結局、努力した先の方向性が見えないまま、やり続けるしかなかったんです。

マセソン美季氏

当時の日本パラスポーツ界は、見よう見まねで、ひたすらやり続けるしかなく、「努力した先の方向性」が見えていなかったと話すマセソン氏

及川: 「厳しさ」と「苦しさ」の先に「達成感」があるという教えだったんです。だから、四の五の言わず、まず乗り越えなさいと。

マセソン: いわゆる修業でしたよね。「やればわかるから」と。「何がわかるんですか?」と聞いても、誰も答えられない。だから、自分で考えてやってみるしかなかったんです。

及川: 日本がそういう状況の時代に、アメリカのイリノイ大ではすでに「コーチング」のインテリジェンスがプログラムとして出来上がっていたんです。車いすの動かす方向や角度という基本から、実戦での戦略、そして選手育成のためのアプローチの仕方まできちんと一つ一つ理論立てた手法が確立されていたので、「今、これをやれば、こういうことができるから、楽しんでやろう」というふうに指導してもらうことができました。決して苦しさが先に来るのではなく、楽しいことが先にくる。日本とはまるで違う指導方法でした。

マセソン: イリノイ大では、陸上競技もそうでしたよ。何よりも、練習が楽しいと思えるんです。メニュー自体はとても厳しくて苦しいんですけど、でも楽しいというフィーリングが残る。何のためにやるかがはっきりしているからということもあると思いますし、練習メニューが単一ではなくて、毎日いろいろと変わるので、「今日は何だろう?」「あ、こういう練習が、こういうところにつながるんだ」という新しい発見みたいなのがあったからだと思います。

及川: それと、アメリカではまず褒める。日本では最初から褒めると「調子に乗るな」というふうになる傾向が強いけれど、アメリカでは最初に褒めることを大事にしているんです。

マセソン: だからたとえ失敗をしても、「できなかったけど、でもここは良かったよ」というふうにマイナスをプラスにしてくれるので、次への意欲をかき立てられるんです。

及川: もちろん、どちらがいいか悪いかということではありません。ただ、日本では練習が修業だった時代に、美季さんも言うようにイリノイ大では「厳しくも、楽しみながらレベルアップしていく」というコーチングの手法があった。だから、「あ、スポーツって厳しさの中に楽しさを見出すことができるんだ」と初めて思うことができたんです。

―― そのイリノイ大で行われているジュニアキャンプをもとに、2001年、お二人と同志の方たちでスタートさせたのが、「Jキャンプ」。「車いすバスケの真の楽しさを伝え、人間の可能性を追求する」を理念としている「Jキャンプ」スタートのきっかけは何だったのでしょうか。

及川: 最初のきっかけは、シドニーパラリンピックの選手村で、当時車いすバスケの日本代表だった僕と神保康広(じんぼ・やすひろ)、そしてメディアとして来ていた美季さんの3人で話をしていて、自分たちがアメリカで経験した「きちんとしたプロセスをもって、楽しみながら成長していく」というものを日本の子どもたちに経験してほしいよね、という話で盛り上がったことにありました。それで、イリノイ大で行われている車いすバスケのジュニアキャンプを日本でもしようという話になったんです。それからさまざまな人たちの力を借りて、翌年に札幌で第1回を開催しました。

マセソン: その第1回のキャンプ閉会式で、私たちスタッフも、参加した選手も、みんな達成感を感じて号泣したんです。私自身はプレーをするわけでも指導するわけでもなかったけれど、スタッフとしてそばから見ていて、プログラムのセッションごとに、そして一日ごとに、どんどん選手の表情や発言が変わっていくのを見て、本当に驚きました。さっきまで全然声を出せなかった選手が、気づけば大きな声を出せるようになっていたり、相手を褒めることができるようになっていったり……。「こんなにも人って変わることができるんだ」と改めて思いました。

―― 「Jキャンプ」からは多くの日本代表選手が輩出されていますが、一番印象に残っている選手はいますか?

マセソン: やっぱり一番は、香西宏昭(こうざい・ひろあき)選手。第1回の時は、最年少の13歳で、フログリーから「10年後が楽しみで賞」をもらったんです。私の中でも、彼は一番印象に残っていますね。

及川: 当時、香西はまだ車いすバスケを始めたばかりで、逆に言えば、まっさらな状態だったのが良かったんでしょうね。何もなかったからこそ、彼にとってフログリーの指導がすべて新鮮に映っただろうし、純粋に吸収していけたのだと思います。彼はその6年後に高校を卒業して単身渡米するわけだけど、その時、僕はフログリーに「『10年後が楽しみで賞』の10年後まで、あと4年だからね」と言ったんです。当時、すでに彼は日本選手権でMVPに2度も輝いていて、国内ではトップ選手になっていた。だから「あと4年で、世界のレベルにまで引き上げてほしい」と言ったら、フログリーは「わかった」と。実際4年後、イリノイ大のキャプテンを務め、全米大学年間シーズンMVPを取るんです。そのプロセスのもとになっているのは、「Jキャンプ」であって、そういう意味で香西は「Jキャンプの申し子」と言ってもいいのかもしれませんね。

継承していきたい「全額自費時代」の思い

―― 今では強化指定選手が海外に遠征に行くというのは当たり前の時代になっていますが、お二人が現役時代の海外遠征とはどのようなものだったのでしょうか?

及川: 今の日本代表とまず違うのは、どの競技においても、遠征費が全額自費だったということ。僕たちは、1度の遠征で30万円以上かかっていました。日本代表のユニフォームでさえ6掛けで購入しなければいけなかったんです。だから今の選手たちとは遠征に対する心構えというのは、全く違っていたと思いますよ。だって、30万円以上払って行っても、全く試合に出場できないこともあるわけですからね。「それでも行きますか?」ということで、覚悟を持たなければ、そんな大金を払ってまで行くことはできませんでした。

及川晋平氏

現役時代の遠征は、生半可な覚悟では行かれなかったと振り返る、及川HC。時代は変わり、パラスポーツ環境も変わりつつあるが、当時の「思い」は、なくしたくないと話す

マセソン: 私たちスレッジは、北欧に行くことが多くて、それこそ1度の遠征に70万円かかったこともありました。初めての遠征の時、私はまだ学生でした。アルバイトはしていたけれど、そんなのではとても間に合わず、困っていたんです。そこで、お正月に集まった親戚に「実は今度海外に遠征に行きたいけれども、お金がないので、どうか皆さん、カンパしてください!」とお願いをして、みんなからいただいたお金で行ったんです。しかも、大学の友人もカンパしてくれて……。学生でそんなお金があるわけじゃないのに、アルバイトとかお小遣いの中から精いっぱいのお金を出してくれて……。だから「あぁ、私はみんなの温かい気持ちを背負っていくのだから、しっかりと頑張らないといけない」という思いで遠征に臨んでいました。

及川: 僕たちは、今は恵まれているからダメとか、そういうことを言いたいわけではないんです。時代が違うわけですからね。ただ、あの時は足りないものを自分たちでどうにかして補いながら遠征に行っていたことは紛れもない事実。そうやって、たとえ結果が出たとしても、何か賞金が出るというようなことは全くなかったけれど、それでも栄光を目指して、投資をしてでも何かやり遂げたいという自分の意思だったり、周りの人の思いだったりが集結してパラリンピックを目指す時代だったんです。一方では、もちろん代表としての強化費を上げてほしいと願っていたこともまた事実で、今はそれがかなう時代になって、本当に素晴らしいことだし、ありがたいなと思います。だからこそ、世界で勝つための国際力を育むというミッションに取り組むことができるわけです。それこそ、僕たちの時にはできなかったことを実現させていくことが、今の選手には求められている。ただ、僕たちの時代にあった「思い」という部分においては、今の時代もなくしてはいけない。それは、まさに恵まれている今の日本代表チームが葛藤している部分で、「何のために」「誰のために」戦っているのかということが、ともすると見失われかねない中で、常に問い続けていかなければいけません。そして、それはHCである自分の仕事だと思っています。

「教育」こそ真のレガシー。「I’mPOSSIBLE」が導く日本社会の新時代

―― 2020東京パラリンピックまで、2年半となりました。改めて、5年前の2013年に開催が決定した時、お二人はどんな思いを抱いていたのでしょうか?

マセソン: 私は現在、カナダの首都オタワに家族と住んでいるのですが、東京での開催を心から願っていました。自宅のカレンダーの開催決定日(9月8日)のところには、早々と「日本開催決定」という文字と一緒に、自分が飛行機でカナダと日本を行き来するイラストを書き込んでいたんです。それは、「東京に決まったらパラリンピックに関わる仕事をする」と決めていた私の意思表示でした。選手として長野大会に出場し、シドニーをはじめ4大会でメディアのような立場で「伝える」という経験をさせていただいた自分が、今度は内側から支える立場としてパラリンピックに関わりたいなと思っていたんです。

―― やはり日本への思いは大きかったのでしょうか?

マセソン: 2010年にカナダのバンクーバーでオリンピック・パラリンピックが開催されましたよね。その際、自国で開催する意義の大きさを改めて感じたんです。当時はまだカナダ人の夫がアイススレッジホッケー(現パラアイスホッケー)の現役選手だったということもあって、カナダ政府がどのようにチームや選手を支援しているのか、学校ではどのような教育が行われたのか、ということを、家族という立場から身近で見ることができました。そうした時に「あぁ、やっぱり自国開催だからできることって、こんなにもたくさんあるんだな」と感じたんですね。しかも、こんなにもさまざまな立場からパラリンピックに関わった人は、自分以外にそうはいないだろうと。だったら東京開催のために、自分にできることがあるんじゃないかと思ったんです。それでもし開催が決定したら、日本とカナダを飛び交おうと思っていました。今、それがまさに実現しているというのは、本当にうれしいことです。

及川: 僕はその年の6月に、2016年リオデジャネイロパラリンピックに向けた車いすバスケ男子日本代表のHCに就任が決まって、9月8日の開催決定の時は、富山で強化合宿をしていました。開催が決まった時、自分の目で見たシドニーやロンドンの時の映像がよみがえってきて、「東京でもああいうふうに盛り上がったらいいな」ということでした。そして、何より一番強く思ったのは、「日本が試されるな」ということ。当然、オリンピックは日本の新しいテクノロジーを生かして華やかに開かれるんだろうなということは容易に想像がつきましたが、パラリンピックはというと何もビジョンがなくて、だからこそいろいろなことが試されるなと。本当にパラリンピックを見に行く人たちがいるのか、あるいは過去のパラリンピックのように観客を動員して盛り上げようとするのか……とかね。日本はどういうふうにパラリンピックへ向かっていくのか、ということが非常に重要になるなと思いました。と同時に、「これは我々車いすバスケの問題でもあるな」とも思ったんです。パラリンピック競技の中でも高い人気を誇る車いすバスケには、旗振り役としての役割が問われるはずで、じゃあそのためには果たしてどうすべきなのかと。その一方で「この波に乗って、自分たちも強くなっていくぞ」という思いもありました。ただ、そうした中で、最後には「いや、東京に思いをはせる前に、オレが今すべきことは、リオで結果を残して、東京につなげていくことだ」と気を引き締め直しました。

―― そのリオは、東京に向かっていくうえで、何をもたらした大会となったでしょうか?

及川: 海外勢相手に、今の日本は何が通じて何が課題なのか、そして日本が持っているもの、持っていないものと、海外勢が持っているもの、持っていないものが何であるかを、しっかりと見極めることができたということは、東京に向かっていくうえでは非常に大きな収穫でした。東京では世界のトップを本気で目指すことに挑戦しようとするだけの基礎ができたのが、リオの大会だったと感じています。

―― マセソンさんは、パラ教育の普及に尽力されています。2017年には全国の小学校に「I’mPOSSIBLE日本版」という教材が配布され、本格的にパラ教育がスタートしました。今、どのような普及活動が行われているのでしょうか。

マセソン: パラ教育というと、外部から講師を招いた出前授業が一般的でした。でも、この教材を使えば、教員の皆さんが主体的に授業をすることができるので、それを理解していただけるよう、教員研修会やワークショップを積極的に行い、東京2020組織委員会とも連携しながら、「I’mPOSSIBLE日本版」を通してパラリンピックの魅力を発信しています。この「I’mPOSSIBLE日本版」の教育を受けた子どもたちが大人になる頃には、日本の社会がどう変わるんだろうと思うと、とても楽しみですし、これからもっとこの教材を広く普及させていきたいと思っています。

及川: 人々の考え方や社会を変えたいと思った時、何が大きな力になるかと考えると、やっぱり一つは子どもたちへの教育だと思うんです。純粋に好奇心を持つことができて、どんどん新しいことにチャレンジして、気づいて、吸収していく力がある子どもたちの教育の中に、人のマインドを変えるものを盛り込んでいくと、そこで育った子どもたちがそういう文化をつくっていく。とても時間を要することだけれど、その分、深く浸透していくことができる。今回、「I’mPOSSIBLE日本版」を使って教育というところに着手できたということこそ、2020東京パラリンピックの一番の財産となるはずです。今、よく「東京でのレガシーは?」と言われているけれど、「教育です」とはっきり言っていいくらいだと僕は思っています。

―― 今、マセソンさんは年に何度もカナダと日本を行き来しながら、「I’mPOSSIBLE日本版」の製作・普及など、2020東京パラリンピックに向けて大変なご活躍をされています。「(旧姓)松江美季」時代から知っている及川さんは、マセソンさんの姿をどう見ていらっしゃいますか?

及川: 昔からそうですけど、とにかく「かっこいい」の一言につきますよね。日本が誇る貴重な存在。周りがとやかく言わなくても、これからさらに活躍してくれることはもう十分にわかっているので、あとは健康にだけは気を付けてくださいということだけです。

マセソン: ありがとうございます(笑)。でも、本当にかっこいいのは夫です。正直、最初は小学生二人の子どもがいる母親の身でありながら、頻繁にカナダと日本を行き来することは難しいかなと思っていたんですね。でも、夫がこう言ってくれたんです。「いや、これは美季がやりたいと思ってきた仕事だし、やるべきものでしょ。それこそ、後で後悔して文句を聞かされるのは嫌だからね(笑)。僕が競技をしていた時は、文句を言わずに支えてくれた。だから今度は僕が支える番だ。家のことは心配しなくていいから、しっかりといい仕事をしてきてよ」と。そう言って送り出してもらっている身としては、しっかりとやらないといけないですからね。2018年も頑張りますよ。

マセソン美季氏

メダルプレゼンターを務めるマセソン美季氏(2017アジアユースパラゲームズ)。パラスポーツ、パラ教育のために、世界を飛び回り、さまざまな活動に従事している

及川: 僕たちは「同志」みたいなものだからね。もちろん僕らだけでなく、何もなかったあの時代を共に過ごしてチャレンジしてきた仲間は他にも何人もいて、そういう人たちが今、それぞれの立場や環境で日本のパラリンピック界を支えている。みんなの活躍が本当にうれしいし、「よし、自分も負けていられない」と思えるんです。

―― 最後に、2020東京パラリンピックへのお気持ちをお伺いしたいと思います。

及川: 僕は特別な思い、というのはありません。というのも、もうやらなければいけないことが山積していて、とにかくそこをどう通過して、2020年にたどりつくか。そのことだけに集中している感じですね。「2020年に向けて」とどっぷりと構えている余裕は全くなくて、とにかく毎日毎日、やるべきことをやっていくだけ。飛行機で例えたら、車いすバスケ男子日本代表は、2017年で機体が出来上がって、今、滑走路で翼を広げている状態。ただ、まだ飛行の準備が完全に整ったわけではありません。どこまでスピードを出すべきなのか、あるいはどこかの部品が不足していないのか、そういった一つ一つ細かいことをこれからやっていかなければいけない。今、その責任を常に感じながら、毎日を過ごしているところです。

マセソン: 私は、2020年を迎えた時に後悔だけはしたくないと思っています。「自分がやれることはすべてやり尽した」と思えるくらい頑張りたいという気持ちで今、過ごしていますね。そして、閉会式を迎えた時に満足感で終わりたい。ただ、私が行っているパラ教育というのは、一過性のものではなく、将来につながるものとして行っているので、2020年ではまだ何の答えも出ていないと思うんですね。ただ、2020年がいいきっかけになることは間違いないので、そこまでに教材自体の存在や効果を浸透させて、その後につなげていきたい。それが、私が2020年までにやらなければいけないことだと思っています。派手なことではなく、地味だけど着実にやっていきたい。今、そんな思いでいます。

(前編に戻る)

(文:斎藤寿子/写真:越智貴雄)


<及川晋平(おいかわ・しんぺい)>

1971年4月20日、千葉県生まれ。PwCあらた有限責任監査法人所属。バスケットボールに熱中していた高校1年の時に骨肉腫を患い、右足を切断。5年の闘病生活を経た後、車いすバスケットボールと出合う。93年に千葉ホークスに加入。22歳の時にアメリカへ留学し、シアトルスーパーソニックス、フレズノレッドローラーズでプレー。イリノイ州立大学の練習にも参加し、名将マイク・フログリーの指導を受ける。2000年シドニーパラリンピックに日本代表として出場。翌01年、後にNPO法人化した「Jキャンプ」を設立し、現役でプレーする傍ら、車いすバスケの普及活動にも注力する。02年、車いすバスケのクラブチーム「NO EXCUSE」を立ち上げ、自ら指導を行う。12年ロンドンパラリンピック車いすバスケ男子日本代表アシスタントコーチを務め、13年にはヘッドコーチに就任。現在は、東京パラリンピックでのメダル獲得を目指し、チーム強化を図っている。

<マセソン美季(ませそん・みき)>

1973年7月17日、東京都生まれ。旧姓・松江美季。東京学芸大学1年の時に交通事故で脊髄を損傷し、車いす生活に。4年時に出場した1998年長野パラリンピックでは、アイススレッジスピードレースで金3、銀1の計4個のメダルを獲得した。大学卒業後、アメリカのイリノイ州立大学に留学。卒業後は当時アイススレッジホッケー(現パラアイスホッケー)カナダ代表選手と結婚し、カナダへ移住。現在も首都オタワで暮らしている。2016年からは、カナダと日本を行き来しながら日本財団パラリンピックサポートセンターで推進戦略部プロジェクトマネージャーとして世界中を飛び回っている。パラリンピック教育では「I’mPOSSIBLE日本版」の教材開発のリーダーを務めている。

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

斎藤寿子(さいとう ひさこ)

新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。2011年から取材を始めた障がい者スポーツでは、パラ競技を中心に、国内大会をはじめ、2012年ロンドンパラリンピック、2014年仁川アジアパラ競技大会、2016年リオデジャネイロパラリンピックなどを取材。2015年からフリーライターとして活動している。

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