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December 08 2015 By 佐藤 喬

自転車の世界にもJリーグを 栗村修の夢(前編)

自転車の世界にもJリーグを 栗村修の夢(前編)

神奈川のサッカー少年

1970年代末の神奈川県で、ひとりの幼稚園児が読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)のスクールでサッカーに打ち込んでいた。

少年の名前は栗村修(くりむら おさむ)という。

時代はJリーグ発足の10年以上前である。サッカーは今ほどメジャーな競技ではなかった。無名競技ではないが、その地位は野球などの「メジャースポーツ」には及ばない。「ラモス・ソブリーニョ」というブラジル人が親の反対を押し切って来日し、読売サッカークラブに入ったのはこの頃である。彼は後に日本国籍を取得し、ラモス瑠偉になった。

当時のサッカーが置かれた状況を今日のスポーツに例えると、ひょっとすると、サイクルロードレースに近かったかもしれない。

そんな時代にサッカースクールに通う栗村少年は熱心なサッカー少年に見えただろうが、実は本人はあまり乗り気ではなかった。スクール通いは親の勧めによるものだったためだ。

だが、才能と好き嫌いが一致するとは限らないらしい。栗村少年はサッカーに非凡さを見せ、小学生の頃にはジュニアユースに昇格した。ただ、それでも、あまり好きにはなれない。

ユース時代の栗村修選手

ジュニアユース時代の栗村修選手

 

彼にはサッカーとは別に、好きなことがあった。自転車に乗ることだ。しかし彼はまだ競技としての自転車を知らないから、サッカーを自転車に置き換えることは思いつかなかった。

栗村だけではない。当時の日本人はまだほとんどサイクルロードレースの存在を知らない。あるいは、今もまだ。

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栗村少年は陸上競技でも活躍していた

 

ツール・ド・フランス

世界最高峰のサイクルロードレースである「ツール・ド・フランス」を日本で初めて放映したのは、1980年代のNHKだったといわれている。偶然から、その、数少ない(と想像される)視聴者のひとりとなったのが、中学一年生の栗村修だった。

Sean Kelly

1989年ツール・ド・フランス<写真:Anders>

彼は画面に釘付けになった。初めて見る競技の美しさに少年は衝撃を受けたのだった。そして彼は、ロードレーサーという職業があることと、ヨーロッパではその競技が大々的に行われていることを知った。

栗村は中学二年生で初めてのロードバイクを手に入れ、夢中になる。

当時の神奈川の、開発中の住宅街には上りや悪路もあったから「ツール・ド・フランスごっこ」をする場所には困らなかった。しかし彼はやがて「ごっこ」では満足しなくなる。それは、プロのロードレーサーとしてヨーロッパを目指すということだ。

 

プロのロードレーサーを目指して

中学生の栗村はまだ部活動としてサッカーを続けていたが、マラソンにも才能を発揮しており、中学駅伝の県大会では区間3位に入った。その実績によって名門校に推薦入試で進む道もあったのだが、彼はそれを蹴る。プロのロードレーサーになるべく、強豪自転車部がある高校の受験を決めていたからだった。

教師はサイクルロードレースという、聞いたことのない競技のプロを目指す少年を諭したが、彼は聞かなかった。

翌年の春、一般入試で見事に志望校に合格した彼は意気揚々と自転車部の門を叩こうとする。

ところが、その門が見当たらない。このマイナースポーツの部活は、とっくに廃部になっていたのだった。栗村少年は頭を抱えた。(続く

佐藤 喬

佐藤 喬 Twitter

フリーランスの編集者・ライター。1983年生まれ。2013年よりフリーランスとして活動。書籍やムックの企画立案・ディレクション・編集作業・取材・執筆までをひとりで行う。自転車関連に強い。著書に『エスケープ』(辰巳出版)。

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