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レーサー、栗村修
強豪で知られた自転車部に入るべく、有名高校への推薦を蹴ってまで進んだ公立高校。しかし自転車部はすでに廃部になっていた。
だが、栗村修の競技への熱はもちろん、そんなことでは冷めない。彼は高体連(全国高体連自転車専門部)でのレース活動は諦め、神奈川のあるショップのクラブチームに入った。レーサー、栗村修の誕生である。
栗村は実業団に登録して走りはじめた。つまり、高校とは無関係に選手として活動していたことになる。練習は、登校前と放課後に行っていた。
思春期の栗村少年は、自分がロードレースに打ち込んでいることを、あまり周囲に言えずにいた。自分の愛する競技がマイナースポーツであることをちょっと気にしていたからだ。ただし、もし言ったとしても、ロードレースを知っている同級生はほとんどいなかっただろう。
サッカーやマラソンの授業ではなぜか圧倒的な力を発揮する、よく日焼けした帰宅部の少年。彼には運動部からも多く声がかかったが、栗村は耳を貸さなかった。彼が見ていたのは、中学生のときにNHKで見たツール・ド・フランスだったからだ。
そんなある日、クラブチームの先輩選手のひとりが栗村をフランスに誘った。本場フランスが、いきなり目の前に現れた。
アルバイトの日々
決心すると、行動は早かった。栗村は2年生の夏に高校を中退する。
選手としての活動には資金がいる。生活費、レースに必要な費用、航空チケット……16歳の少年にとっては大金である。栗村は練習の傍ら、猛烈にアルバイトに打ち込んだ。ガソリンスタンドやピザの配達、コンビニエンスストア。ラーメン屋の厨房で働いたこともある。
その甲斐あって、栗村は翌年、フランスに渡ることができた。
夢の国
ところで、ヨーロッパを経験した日本人レーサーは意外と多い。ただし多くの選手は、名前を知られることなく選手生活を終える。中には日本人としてはじめてツール・ド・フランスを完走した別府史之や新城幸也のような選手もいるが、彼らは例外である。
よくある感想は、ヨーロッパのレースはレベルが高い、というものだ。それは栗村も同じで、ヨーロッパの選手のスピードには少なからず驚いた。
しかしそれ以上に栗村をびっくりさせたものがある。それは、ロードレースがマイナースポーツではないということだった。レーサーたちは日本のように日陰者ではないのだ。

有名レースともなれば街中総出で観戦する(写真:Frans Berkelaar)
ある日のレースで栗村は、逃げに乗ることができた。すると、翌日の新聞に栗村の名前が出た。
栗村は衝撃を受けた。日本ではほとんど知るものいないこの競技が、ひとつの文化として確立しているのである。
フランスはやはり、夢の国だった。しかし栗村にとってその意味は、単にレースのレベルが高いということではなく、競技が社会に受け入れられ、同時に社会に価値を還元しているということだった。
何のために走る?
その後栗村は日本とヨーロッパを何度か行き来しつつ、徐々に頭角を現していく。1996年には強豪シマノレーシングでプロ入りし、1998年にはポーランドのチーム「ムロズ」と契約し、プロとしてヨーロッパを走った。日本を代表する選手のひとりになったということである。

1998年、ポーランドのチーム「ムロズ」の一員としてヨーロッパプロになる
しかし栗村の頭にはずっと、なにかもやもやするものが残った。それはかつてフランスで見た光景と、日本の現実との落差によるものだった。
フランスではレースに多くの観客が集まって声援を送り、レースの様子は新聞でも報じられる。しかし日本では、ヨーロッパプロとなった栗村の存在すら、ほとんど知られていない。道路では邪魔者扱いされ、レースには内輪の観客しか集まらない。そういう環境で、自分はいったい何のために走っているのか、という疑問は栗村を離れなかった。

クラブチームに所属し国内のレースを走る
そのころ、幼少期の栗村が打ち込んでいたサッカーは、いつの間にか日本を代表する競技に成長していた。サイクルロードレースと同じようにあまりメジャーではなかったサッカーだが、1993年にはじまったJリーグによって爆発的に広まったのだった。(続く)